皇帝がローマに教皇を攻めて「カノッサの屈辱」のリベンジ西暦1081年、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世は大軍を率いて南下し、イタリアのローマに教皇グレゴリウス7世を攻めた。
どこからも救援を得ることも出来ず、孤立無援の教皇グレゴリウス7世はサンタンジェロ城に逃げ込むしかできなかった。(上の画像はローマを流れるティベレ川のほとりのサンタンジェロ城。)
聖職者叙任権闘争とカノッサの屈辱西暦1073年に即位したローマ教皇グレゴリウス7世は、教会の改革を実行する決意を抱いていた。その2年後には俗人による聖職者叙任を禁止し、皇帝ハインリヒ4世の息のかかった司教を破門している。対する神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世はドイツの司教を集め、教皇グレゴリウス7世の廃位を決定している。対するローマ教皇も司教会議によって皇帝の廃位と破門を宣言した。 こうして皇帝と教皇との間の聖職者叙任権闘争が激化したわけだ。他方で、皇帝権力の強化を望まないドイツの諸侯たちはむしろ教皇を支持。皇帝ハインリヒ4世は窮地に陥った。 結局、皇帝としての地位を保つためには破門の取り消しを得るしかなくなったハインリヒ4世は、西暦1077年にカノッサに滞在していた教皇グレゴリウス7世に面談を求めた。しかし、教皇は皇帝に会おうとはしなかった。 それでも低姿勢で破門の取り消しを願い続けた皇帝ハインリヒ4世。教皇グレゴリウス7世は皇帝の謝罪を受け入れ、破門を取り消すに至った。これが聖職者叙任権闘争を象徴する事件とされる「カノッサの屈辱」だね。
反撃に出た皇帝ハインリヒ4世他方、皇帝の本拠であるドイツでは諸侯たちがシュワーベン公ルドルフを新しい皇帝とし、神聖ローマ帝国は新旧二人の皇帝たちによる戦いの舞台となった。いずれに肩入れすべきか迷った末にローマ教皇はルドルフ支持。ところが、西暦1080年にルドルフは戦死し、皇帝ハインリヒ4世が態勢を立て直すことに成功した。
西暦1081年に大軍を率いてイタリアに侵入した皇帝ハインリヒ4世はローマを攻め、孤立無援の教皇グレゴリウス7世はサンタンジェロ城に逃げ込んだわけだ。(上の画像は現在のローマのヴァティカン宮殿とサン・ピエトロ大聖堂の様子。)
サレルノで亡くなった教皇グレゴリウス7世西暦1084年、イタリア南部を支配するノルマン人ロベール・ギスカールが大軍を率いて北上。神聖ローマ帝国軍が兵を引いた結果としてロベール・ギスカール軍がローマを占領し、サンタンジェロ城に4年間も籠城していた教皇グレゴリウス7世を救出した。ロベール・ギスカール軍と共に南下した教皇グレゴリウス7世は、サレルノで司教会議を開き、皇帝ハインリヒ4世を再び破門している。でも、既に62歳となっていた教皇は翌年にはサレルノで亡くなってしまった。下の画像はサレルノの大聖堂(ドゥオモ)の内部の様子なんだけど、完成したばかりのこの大聖堂(ドゥオモ)を聖別して聖マタイに捧げたのは教皇グレゴリウス7世だったそうな。
他方で「カノッサの屈辱」のリベンジを果たした皇帝ハインリヒ4世なんだけど、その長男のコンラートが父親を裏切って対立する陣営に走っている。でも、そのコンラートは西暦1101年に死去。
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