スペインの古都トレドを奪還したカスティーリャ王アルフォンソ6世西暦507年にフランク王国とブルグント王国の連合軍に敗れた西ゴート王国は、今のスペインのバルセロナを経て、トレドの街に首都を移している。でも、8世紀初頭にアフリカから海を渡ってイベリア半島に侵入したイスラム教徒によって西ゴート王国は滅ぼされ、古都トレドも占領されてしまった。そんなスペインの古都トレドをキリスト教徒が奪還したのは、西暦1085年のことだった。スペインのレコンキスタ(国土奪還運動)の英雄の一人であるカスティーリャ王アルフォンソ6世がその立役者だった。
上の画像はそのスペインの古都トレドの脇を流れるタホ川の風景なんだ。トレドの街は三方がタホ川の流れに守られ、残る北側の守りは城壁によって固められていた。
レオン王アルフォンソ6世の誕生スペインの古都トレドを奪還したカスティーリャ王アルフォンソ6世は、西暦1040年にカスティーリャ王フェルナンド1世の王子として生まれている。下の画像はそのフェルナンド1世と王妃サンチャの像。(スペインの首都マドリッドの王宮の脇にあるオリエンテ広場に立つ王たちの像のひとつ。)
父のカスティーリャ王フェルナンド1世がヴァレンシア攻撃の際に病を得て西暦1065年に亡くなった時、彼が支配していた土地は子供たちによって分割されたんだ。カスティーリャ王となったのは長兄のサンチョ2世だった。末弟のガルシア2世はガリシア地方を与えられた。真ん中のアルフォンソ6世はレオン王となった。
カスティーリャ王となったアルフォンソ6世がスペイン皇帝を称したところが、この三兄弟はやがて争いを始めた。西暦1068年にはレオン王アルフォンソ6世がガルシア2世の勢力範囲にあったイスラム教徒の小王国に侵入している。やがて末弟ガルシア2世は二人の兄に追われ、スペイン南部アンダルシア地方の古都セビリアに逃げ込んでいる。下の画像は古都セビリアにあるヒラルダの塔から見下ろしたセビリア大聖堂のナランハ(オレンジ)の庭なんだけど、緑の木々の間に見える人々の小ささで塔の高さがわかるよね。
そして西暦1072年、レオン王アルフォンソ6世は長兄カスティーリャ王サンチョ2世に敗れ、自分の勢力範囲にあったトレドのイスラム教徒小王国に逃げ込んだんだ。ところが、その年の秋には長兄サンチョ2世が暗殺された。
そのフェルナンド1世に父や祖父が仕えていたエル・シドは、サンチョ2世に臣従していた。その後、サンチョ2世が暗殺され、エル・シドはアルフォンソ6世の家臣となる。でも、サンチョ2世の暗殺に関して、エル・シドとアルフォンソ6世との間にはしこりがあったとも言われている。故にやがて追放されたエル・シドはヴァレンシアを征服することになったとか。
スペインの古都トレドを奪還したカスティーリャ王アルフォンソ6世そして西暦1085年、カスティーリャ王アルフォンソ6世が3年間に及ぶ攻囲の末に、スペインの古都トレドをイスラム教徒の手から奪還したんだ。長兄に敗れた時にはそこに逃げ場を求めていたんだけどね。
その古都トレドが開城する際、イスラム教徒に対する条件として、生命・財産・信仰などの保証に加えて、彼らのモスクの存続を認めていた。ところが、結局はトレドの大モスクはキリスト教徒によって奪い取られた。その大モスクを取り壊し、13世紀から15世紀までかけて建てられたのが、上の画像に塔の見えるトレド大聖堂だった。
ついでながら、このカスティーリャ王アルフォンソ6世の娘がポルトカレ伯に嫁ぎ、生まれた男の子がやがて初代ポルトガル王アフォンソ1世となっている。彼はカスティーリャ王アルフォンソ7世と戦ってポルトガルの独立を勝ち取ったんだ。他方でアフォンソ1世はイスラム教徒と戦い、リスボン、オビドス、シントラなどを占領している。
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