レオンとカスティーリャの王フェルナンド1世と王妃サンチャヨーロッパの国の王宮といえば、頭に浮かぶのはイギリスの首都ロンドンのバッキンガム宮殿だったりフランスの首都パリの郊外にあるヴェルサイユ宮殿だったりするかな。でも、スペインの首都マドリッドにも、今の国王フアン・カルロス1世の公式の宮殿となっている王宮があるんだ。(でも、スペイン国王は普段はマドリッド郊外にあるもっと小さな宮殿に住んでいるらしいけどね。)
そんなマドリッドの王宮の東側にあるオリエンテ広場には、昔のスペインの王様たちの像が並んでいる。その中で見つけたのが上の画像にあるお二人。フェルナンド1世とその奥さんのサンチャさん。このフェルナンド1世は西暦1037年にレオンとカスティーリャの王になっている。更に西暦1056年にはスペインの皇帝をも称したらしい。
カスティーリャ伯からレオンとカスティーリャの王フェルナンド1世は西暦1015年頃にナバラ王サンチョ3世の息子として生まれている。長男ではなかったことから、ナバラ王を継ぐことはなく、西暦1029年にカスティーリャ伯となっている。そして西暦1032年には奥さんのサンチャと結婚している。この結婚がやがて彼に大きな飛躍をもたらすわけだ。西暦1037年、彼は奥さんサンチャの兄のレオン王ベルムード3世と戦い、王は戦死してしまった。その王位継承権を持つのは妹のサンチャのみであり、つまりはサンチャの夫であるフェルナンド1世がレオン王となり、同時にカスティーリャの王ともなったわけだ。 そんなレオンとカスティーリャの王フェルナンド1世は、スペインの古都トレドにあったイスラム教徒の小王国をも従属させている。フェルナンド1世はトレドのモサラベ(イスラム教徒支配下のキリスト教徒)を保護する立場にあり、トレドの司教はレオンで任命されていたらしい。
上の画像はそんなスペインの古都トレドの大聖堂の塔なんだ。といっても、フェルナンド1世の時代にはこの大聖堂はイスラム教徒のモスクだった。西暦1085年にフェルナンド1世の息子のカスティーリャ王アルフォンソ6世が古都トレドを征服したんだけど、その後にモスクはキリスト教の大聖堂にされている。
イスラム教徒の小王国に侵攻したフェルナンド1世レオンとカスティーリャの王フェルナンド1世は、トレドなどイスラム教徒の小王国などを従属させ、それらの小王国から貢納を得ていた。その貢納を資金として、更にイスラム教徒の支配地域に侵攻を繰り返したんだそうな。例えば西暦1063年には、フェルナンド1世はスペイン南部アンダルシア地方の街セビリアにまで侵攻している。セビリアのイスラム教徒たちは、フェルナンド1世に貢納を支払い、それを条件に撤退を求めたらしい。その貢納が更なるフェルナンド1世の侵攻の費用を賄うことになるんだろうね。
上の画像はそんなセビリアの街にある世界遺産ヒラルダの塔から眺めたセビリア大聖堂の屋根と街並みなんだ。
レオンとカスティーリャの王フェルナンド1世の死と息子たち西暦1065年、フェルナンド1世は東に向かい、スペイン東部の地中海に面した街ヴァレンシアを中心とするイスラム教徒の小王国に侵攻した。そこでも勝利を得た彼は、更なる貢納を引き出したらしい。(下の画像はヴァレンシアの火祭りの夜の風景。赤い服の巨人は大きな人形なんだ。)
ところが、そこでフェルナンド1世は病に倒れてしまった。遠征先からレオンに戻った翌月、西暦1065年の年末にレオンとカスティーリャの王にして中世スペインのレコンキスタ(国土回復運動)の戦士フェルナンド1世が亡くなっている。
余談ながら、中世スペインの英雄として名高いエル・シドの父はフェルナンド1世の下で功績を残した軍人だった。またエル・シドの母方の祖父はフェルナンド1世の重臣だった。そしてエル・シド自身はフェルナンド1世の長男サンチョの小姓となったんだそうな。そのサンチョが王となった後に暗殺され、エル・シドはアルフォンソ6世の臣下となる。でも、やがて追放されたエル・シドはヴァレンシアの支配者となるんだけどね。
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