スコットランド王ダンカン1世西暦843年にケネス・マカルピンがピクト人の王となり、初めてスコットランドに統一王国(アルバ王国)が誕生した。しかし、そのケネス・マカルピンの子孫の間での王位争いが続き、他方で南方のアングロ・サクソン人との境界も安定しなかった。そしてようやくスコットランド王マルカム2世の時代に南方のアングロ・サクソン人との戦いにも勝ち、現在のスコットランドの領土がほぼ確定したらしい。西暦1034年にスコットランド王となったダンカン1世は、そんなスコットランド王国を祖父であるマルカム2世から継承したわけだ。 ところが、スコットランド王ダンカン1世は更に南方のイングランドに侵攻し、しかし何度も失敗したらしい。その結果としてスコットランド王国が不安定化し、内戦まで起こってしまったんだそうな。
マクベスがスコットランド王ダンカン1世を殺害王国を不安定化したスコットランド王ダンカン1世に対し、反乱を起こした人物の一人がマクベスだった。マクベスは、ダンカン1世の祖父スコットランド王マルカム2世の甥にあたり、同じくスコットランド王ケネス2世の孫にあたっている。つまり、マクベスもスコットランド王となる資格を持つ人物だった。
西暦1040年にはマクベス軍とスコットランド王ダンカン1世の軍が戦い、ダンカン1世が戦死してしまった。上の画像は、インヴァネス近くにあるコーダー城の様子なんだけど、そのコーダー城はシェイクスピアの物語においてマクベスがダンカンを殺害した舞台となる城のモデルとも言われている。
マクベスがスコットランド王ダンカン1世を戦いで戦死させたマクベスは、自らスコットランド王となった。下の画像は、スコットランドの古都パースのスクーン・パレス(宮殿)の庭にあるスコットランド王家ゆかりの運命の石 スクーン・ストーンのレプリカなんだ。シェイクスピアの物語においては、マクベスはここでスコットランド王になっている。
スコットランド王となったマクベスの時代には、スコットランド王国は安定していたんだそうな。そんな政治的安定の故にこそ、マクベスは西暦1050年にはイタリアのローマに巡礼に行くこともできたわけだよね。
ダンカン1世の息子のマルカム3世がマクベスを殺害スコットランド王ダンカン1世がマクベスに敗れた後、ダンカン1世の息子のマルカム・カンモーはイングランドに亡命した。しかし、やがてスコットランドに帰国し、西暦1054年にはスコットランド王マクベスとの戦いで勝利。更に西暦1057年には再びマクベスと戦い、マクベスが戦死している。父親の仇であるマクベスを殺害したマルカム・カンモーはスコットランド王マルカム3世として即位。王となったマルカム3世は、亡命していたイングランドに何度も侵攻している。しかし、西暦1093年にイングランド侵攻の際の戦闘で戦死している。 余談ながら、スコットランド王マルカム3世の王妃は、ウィリアム征服王によるノルマン・コンクエストの際にイングランドを逃げ出したアングロ・サクソン王家のマーガレットだった。
マーガレット王妃は、アイルランド色の強かったスコットランドのキリスト教信仰をローマ・カトリックに従ったものとさせ、カトリック教会から聖人とされている。上の画像にあるエディンバラ城の最古の部分は、そんな聖マーガレットの為に息子のスコットランド王デヴィッド1世が建てた教会なんだそうな。
シェイクスピアのマクベスと実在のスコットランド王マクベス以上が実在したスコットランド王マクベスなんだけど、シェイクスピアの描いたマクベスとはちょいと違っているよね。マクベスが殺害したスコットランド王ダンカン1世は、実際には善良な王ではなく、むしろ王国を不安定化させた王だったし。対して、実在のスコットランド王マクベスの治世は安定したものだったみたいだよね。そのマクベスを殺したマルカムの実在の姿は、無謀な戦いに明け暮れた粗野な人物だったという話もある。 そんなこんなで、シェイクスピアのマクベスと実在のマクベスとは、正反対だったのかもしれないね。
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