ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1042年、アングロ・サクソン系最後のイングランド王となったエドワード懺悔王がロンドンで即位。(イギリス)


エドワード懺悔王とウェストミンスター・アビー
(ロンドン、イギリス)

アングロ・サクソン系の最期のイングランド王となったエドワード懺悔王が立てたウェストミンスター・アビー(ロンドン、イギリス) 西暦1016年、ヴァイキング系デーン朝のクヌードがイングランドの王となった。しかし、イングランドにおけるデーン朝の支配は断絶し、西暦1042年にはアングロ・サクソン系のエドワード懺悔王が即位した。

そのエドワード懺悔王がイギリスに残したのが、イギリスの首都ロンドン西部にあるウェストミンスター・アビー(右の画像は、その現在の様子)。

その後、このウェストミンスター・アビーでは、歴代のイングランド王が戴冠式を行い、また歴代の王の墓もある。イングランド王家と密接なつながりのある聖堂となったわけだ。

しかし、このエドワード懺悔王も西暦1066年に死去。ヘイスティングスの戦いに勝ったノルマンディー公ウィリアムがイングランド征服王ウィリアム1世となり、ノルマン朝を創始した。つまり、アングロ・サクソン系のイングランド王は、エドワード懺悔王が最後となったわけだ。

誤解を招くウェストミンスター寺院

西暦970年、ベネディクト派の修道士が、シティ(つまり当時のロンドン)の西(ウェスト)に僧院(ミンスター)を建てた。そこから現在のウェストミンスターという地名が生まれたとされている。

ところで、現在のウェストミンスターには、日本語で「ウェストミンスター寺院」と呼ばれうる聖堂が二つある。 一つは上に書いたウェストミンスター・アビー。王妃キャサリンと離婚してアン・ブーリンと再婚したかったイングランド王ヘンリー8世が組織した英国国教会の聖堂だね。

ロンドンのカトリックの信仰を集めるウェストミンスター・カテドラル(イギリス) もう一つがウェストミンスター・カテドラル(右の画像)。実はこれがカトリックの大聖堂。

アビーとカテドラル。この二つの違いをしっかり覚えておかないと、ああ勘違いってことになっちゃうよ。

実を言うと、私はその勘違いをしたことがある。ロンドンに遊びに来た家内の両親を、うっかり間違えてカテドラルに連れて行ったことがあるんだ。

せっかくイギリスの首都ロンドンに来ても、ウェストミンスター・カテドラルへ行ってしまえば、イングランド王家ゆかりの場所や墓地を見ることは出来ないからね。皆さんは間違えないように気をつけてくださいませ。

イングランドにおけるカトリック

イングランド王ヘンリー8世は、ローマの教皇庁と訣別し、英国国教会を組織し、ファウンテンズ修道院グラストンベリー修道院などの多くの修道院を解散したわけだね。

そんな政策に反対した「ユートピア」の著者でカトリックのトマス・モアロンドン塔で処刑されてしまった。ヨークなどの北部のカトリックの人々による恩寵の巡礼の指導者ロバート・アスクはヨーク城のクリフォード・タワーに吊るされて処刑された。

それ以後もカトリックに対する反感が根強いイングランドでは、カトリックの人々は色々と苦しんでいた。そんなカトリックの人々がイギリス王を暗殺しようとしたガイ・フォークスなどの火薬陰謀事件も西暦1605年に起きている。

西暦1678年には捏造されたカトリック陰謀事件によって、多くのカトリックの人々が無実の罪で犠牲になった。西暦1685年に即位したイギリス王ジェームズ2世はカトリックを信じていたけど、名誉革命によってフランスに脱出することになった。

そんなイングランドのカトリック教徒解放法が制定されたのは西暦1829年のことだった。そして上に画像のあるカトリックのウェストミンスター大聖堂の建設が始まったのが西暦1895年のこと。西暦1995年にはイギリス女王エリザベス2世がカトリックのウェストミンスター大聖堂で典礼に参加したらしいけど、これがヘンリー8世以来のことだったらしい。

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