カスティーリャ王アルフォンソ6世がムラービト朝の軍に敗れたスペインのキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)に名を残すカスティーリャ王アルフォンソ6世は、西暦1085年に古都トレドを奪還した。更に軍を進め、スペイン南部アンダルシア地方にまで進出しようといていた。そんなキリスト教徒の圧力に押されていたイスラム教徒の小王国の君主の一人が、古都セビリアの君主ムータミドだった。攻勢を強めるキリスト教徒に対抗する為に、ムータミドは北アフリカのイスラム教徒の新興勢力ムラービト朝の君主ユースフ・イブン・ターシュフィーンに支援を求めた。(下の画像は古都セビリアのモスクのミナレットとして建てられたヒラルダの塔。今はセビリア大聖堂の鐘塔となっているんだけどね。)
北アフリカのイスラム教徒の軍を率いたムラービト朝の君主ユ−スフ・イブン・ターシュフィーンは、スペイン南部に上陸した。スペインのイスラム教徒小王国の軍と共にカスティーリャ王国軍と戦ったのは、西暦1086年10月のこと。深追いして包囲されたカスティーリャ王国軍は包囲され、完敗を喫したらしい。
ムラービト朝のイスラム教徒軍によるトレド包囲ところが、北アフリカに戻ったムラービト朝の君主ユ−スフ・イブン・ターシュフィーンは西暦1089年に再びスペインに上陸してきた。そして西暦1090年、古都トレド(下の画像)まで攻め上ってきたんだ。
古都トレドはほんの5年前にキリスト教徒軍がイスラム教徒の支配から奪い返したもの。それを攻略されてはレコンキスタ(国土回復運動)が大きく後退することとなるよね。というわけで、カスティーリャ王アルフォンソ6世のみならず、アラゴン王サンチョ・ラミーレスも共に古都トレドの防衛の為に戦ったんだそうな。
イスラム教徒の小王国とカスティーリャ王国の同盟ムラービト朝の君主ユ−スフ・イブン・ターシュフィーンによって権力を奪われることを心配したイスラム教徒の小王国の君主たちは、むしろキリスト教徒のカスティーリャ王国と同盟を結び、その支援を得てムラービト朝に対抗しようとしたらしい。
イベリア半島西部(今のポルトガル)の街シントラのイスラム教徒の領主は、山の上の城(上の画像)にカスティーリャ王国の軍を入れ、ムラービト朝の軍による攻撃に備えたらしい。
スペイン南部アンダルシア地方を支配したムラービト朝ところが、西暦1091年には古都コルドバのイスラム教徒たちは、自分たちの君主に対して反乱を起こし、ムラービト朝の軍を街に引き入れたらしい。(下の画像は後ウマイヤ朝が築いた大モスクの面影を残すコルドバのメスキータの中で見た円柱の森。)
古都コルドバを支配下に置いたムラービト朝の軍は、更に進んで古都セビリアをも降伏させた。そのセビリアの君主にして数年前にムラービト朝の支援を求めたムータミドは捕えられてモロッコに送られ、牢獄の中で亡くなったらしい。
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