ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1492年、古都グラナダが陥落してスペインのレコンキスタが完了。その年にコロンブスが新大陸アメリカを発見した。


古都グラナダにあるスペインのカトリック両王の墓

スペイン南部アンダルシア地方古都グラナダ大聖堂の脇に王室礼拝堂がある。その中を歩けば、とっても名高いカップルのお墓を見ることができるんだ。

スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダの王室礼拝堂にあるカトリック両王の墓

それが、上の画像にあるスペインのカトリック両王の墓。カトリック両王というのは、カスティーリャ女王イサベル1世アラゴン王フェルナンド2世(カスティーリャ王としてはフェルナンド5世)のこと。スペイン、いやヨーロッパでとっても重要な功績を残した夫婦だね。

西暦1469年、その時点ではまだ王子と王女だった二人が結婚した。西暦1474年、王女の兄のカスティーリャ王エンリケ4世が亡くなった。カスティーリャの王位継承についてポルトガルの王が介入してきたんだけど、アラゴンの王子フェルナンド2世の活躍もあり、カスティーリャ女王イサベル1世が即位することができた。

そして西暦1479年、アラゴンのフアン2世が亡くなり、息子のアラゴン王フェルナンド2世が即位した。その結果、カスティーリャ王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の下に実質的にスペイン王国が成立したというわけだ。(正確にはカスティーリャ、アラゴン、レオン、カタルーニャなどは別々の国だったけどね。)

但し、このスペインのカトリック両王の統治が順風満帆だったわけじゃない。セゴビアでは反乱が起きたし、古都トレドの大司教はポルトガル王アフォンソ5世の側に立ったりしている。でも、ポルトガルとの関係を修復し、スペインの財政を立て直し、カトリック両王は手堅い政治を行ったみたい。

最後のイスラム教徒勢力ナスル朝グラナダ王国の分裂と混乱

他方、スペインで最後に残ったイスラム教徒勢力となったナスル朝グラナダ王国では混乱が生じていた。王アブル・ハサン・アリーの息子であるムハンマド11世(あるいはボアブディル)は、西暦1482年に父王に対して反乱を起こし、古都グラナダを占領してしまった。(下の画像は、古都グラナダの中でも古い街並みを残し、世界遺産ともされているアルバイシン地区。)

スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダのアルハンブラ宮殿から眺めたアルバイシン地区

しかも、ムハンマド11世(ボアブディル)の叔父にあたるザガル(あるいはムハンマド12世)まで王を称し、ナスル朝グラナダ王国は分裂と混乱に陥ってしまった。

古都グラナダの陥落とスペインのレコンキスタの完了

西暦1232年に成立したナスル朝が今まで存続した背景には、アラゴンやカスティーリャなどのキリスト教徒陣営の内部対立があった。対するナスル朝グラナダ王国には、スペイン各地からイスラム教徒の学者・技術者・芸術家・軍人などが集まり、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)に対抗してきたわけだ。

ところが、15世紀後半になってカトリック両王の下にスペインのキリスト教徒陣営が結束したのに対し、イスラム教徒陣営のグラナダ王国は分裂してしまった。つまりは、ナスル朝の存続の条件が崩れてしまったんだ。

カトリック両王のスペインはグラナダ王国に対する攻勢をかけた。ロンダ、ローハ、マラガ、アルメリーアなどのグラナダ王国の街がキリスト教徒によって次第に攻略されていった。そして、西暦1491年、カトリック両王のスペイン軍がグラナダを包囲した。スペイン軍は進んだ砲兵隊も伴っていたらしい。

そして西暦1492年1月、ナスル朝グラナダ王国の最後の王ムハンマド11世(ボアブディル)が降伏し、カトリック両王にアルハンブラ宮殿の鍵を渡した。カトリック両王は中世イスラム文化の栄華を物語るアルハンブラ宮殿に十字架を掲げたらしい。(下の画像は、世界遺産となっているアルハンブラ宮殿のライオンの中庭の様子。)

スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダのアルハンブラ宮殿のライオンの中庭

ナスル朝の古都グラナダを離れる際に丘の上からアルハンブラ宮殿を眺めたムハンマド11世(ボアブディル)は涙を流したらしい。そんなムハンマド11世を母親はたしなめたんだそうな。

他方でイスラム教徒に押されていたヨーロッパ各地のキリスト教徒は、スペインに残った最後のイスラム教徒の王国が征服され、レコンキスタ(国土回復運動)が完了したことに大喜びをしている。イタリアのローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂ではミサが執り行なわれ、フランスの首都パリなどでも人々が大騒ぎをし、イギリスの首都ロンドンではヘンリー7世セント・ポール大聖堂でキリスト教の勝利を讃えたらしい。

コロンブスによる新大陸アメリカの発見

でも、スペインのカトリック両王の功績はグラナダ王国の征服によるレコンキスタの完成だけじゃなかった。同じ年の4月、カスティーリャ女王イサベル1世は、コロンブスに資金を提供することを決定したんだ。(エンリケ航海王子以来の伝統を持つポルトガルで航海技術を磨いていたコロンブスは、ポルトガル王に西回り航路を提案したものの受け入れられず、やむなくスペインを訪れたらしい。)

ちなみに、その資金を女王に融資したのがヴァレンシアだった。当時の地中海を代表する貿易都市として繁栄していたヴァレンシアの名残りが、世界遺産となっているラ・ロンハ・デ・ラ・セダ 絹の商品取引所かな。

その支援の結果、コロンブスは西暦1492年8月には出航し、大西洋を西に向かった。その2ヵ月後には新大陸アメリカ(正確には大陸じゃなくて島だったけど ・・・ )を発見したわけだ。(下の画像はグアダルキビル川のほとりの街セビリア大聖堂にあるコロンブスのお墓の様子。)

スペイン南部アンダルシア地方の古都セビリアの大聖堂にあるコロンブスの墓

最初の航海から戻ってきたコロンブスは、スペイン北東部カタルーニャ地方の港町バルセロナでカトリック両王に探検の報告を行ったらしい。このカタルーニャ地方ではコロンブスはカタルーニャの出身だとされている。だからバルセロナにコロン(コロンブス)記念塔があるのかな。

ところで、コロンブスは西暦1477年にアイルランド西部にあるゴールウェイの街の聖ニコラス教会に参拝している。聖ニコラスは船乗りの守護聖人だったそうな。合理主義者のイメージのあるコロンブスだけど、船乗りの守護聖人に頼ったりしたんだろうかね。当時のゴールウェイはスペインやフランスとの貿易で栄えていたらしいから、ビジネスで立ち寄っただけなんだろうけどね。

コロンブスに続き、西暦1521年にはコルテスがアステカ帝国を征服し、ピサロはインカ帝国を滅ぼしている。やがて新大陸では銀山などが開発され、莫大な富がスペインに流れ込んできたわけだ。

ついでながら、スペインのカトリック両王は、娘のフアナをハプスブルク家のフェリペと結婚させている。その二人から生まれたのが、後のスペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)だった。そのカルロス1世と息子のスペイン王フェリペ2世の時代が太陽の沈まない帝国スペインの黄金時代とされているよね。その基盤を整備したのがカトリック両王だったということかな。

更についでながら、この「カトリック両王」という呼称なんだけど、レコンキスタ(国土回復運動)完了の後、西暦1496年にローマ教皇アレクサンデル6世(悪名高く、でも魅力的なチェーザレ・ボルジアの父親)によって授けられたものなんだそうな。

ところで、大航海時代の英雄コロンブスの話に水をさすことになるかもしれないんだけど、コロンブスよりも500年近く前に北アメリカに到達したヨーロッパ人がいたみたい。それが幸運のレイフ(レイフ・エリクソン)と呼ばれるアイスランド生まれのヴァイキングだった。彼は西暦1000年頃に北アメリカを発見していたみたいだね。

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