古都グラナダにあるスペインのカトリック両王の墓スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダの大聖堂の脇に王室礼拝堂がある。その中を歩けば、とっても名高いカップルのお墓を見ることができるんだ。
それが、上の画像にあるスペインのカトリック両王の墓。カトリック両王というのは、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世(カスティーリャ王としてはフェルナンド5世)のこと。スペイン、いやヨーロッパでとっても重要な功績を残した夫婦だね。
最後のイスラム教徒勢力ナスル朝グラナダ王国の分裂と混乱他方、スペインで最後に残ったイスラム教徒勢力となったナスル朝グラナダ王国では混乱が生じていた。王アブル・ハサン・アリーの息子であるムハンマド11世(あるいはボアブディル)は、西暦1482年に父王に対して反乱を起こし、古都グラナダを占領してしまった。(下の画像は、古都グラナダの中でも古い街並みを残し、世界遺産ともされているアルバイシン地区。)
しかも、ムハンマド11世(ボアブディル)の叔父にあたるザガル(あるいはムハンマド12世)まで王を称し、ナスル朝グラナダ王国は分裂と混乱に陥ってしまった。
古都グラナダの陥落とスペインのレコンキスタの完了西暦1232年に成立したナスル朝が今まで存続した背景には、アラゴンやカスティーリャなどのキリスト教徒陣営の内部対立があった。対するナスル朝グラナダ王国には、スペイン各地からイスラム教徒の学者・技術者・芸術家・軍人などが集まり、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)に対抗してきたわけだ。ところが、15世紀後半になってカトリック両王の下にスペインのキリスト教徒陣営が結束したのに対し、イスラム教徒陣営のグラナダ王国は分裂してしまった。つまりは、ナスル朝の存続の条件が崩れてしまったんだ。 カトリック両王のスペインはグラナダ王国に対する攻勢をかけた。ロンダ、ローハ、マラガ、アルメリーアなどのグラナダ王国の街がキリスト教徒によって次第に攻略されていった。そして、西暦1491年、カトリック両王のスペイン軍がグラナダを包囲した。スペイン軍は進んだ砲兵隊も伴っていたらしい。 そして西暦1492年1月、ナスル朝グラナダ王国の最後の王ムハンマド11世(ボアブディル)が降伏し、カトリック両王にアルハンブラ宮殿の鍵を渡した。カトリック両王は中世イスラム文化の栄華を物語るアルハンブラ宮殿に十字架を掲げたらしい。(下の画像は、世界遺産となっているアルハンブラ宮殿のライオンの中庭の様子。)
ナスル朝の古都グラナダを離れる際に丘の上からアルハンブラ宮殿を眺めたムハンマド11世(ボアブディル)は涙を流したらしい。そんなムハンマド11世を母親はたしなめたんだそうな。
コロンブスによる新大陸アメリカの発見でも、スペインのカトリック両王の功績はグラナダ王国の征服によるレコンキスタの完成だけじゃなかった。同じ年の4月、カスティーリャ女王イサベル1世は、コロンブスに資金を提供することを決定したんだ。(エンリケ航海王子以来の伝統を持つポルトガルで航海技術を磨いていたコロンブスは、ポルトガル王に西回り航路を提案したものの受け入れられず、やむなくスペインを訪れたらしい。)ちなみに、その資金を女王に融資したのがヴァレンシアだった。当時の地中海を代表する貿易都市として繁栄していたヴァレンシアの名残りが、世界遺産となっているラ・ロンハ・デ・ラ・セダ 絹の商品取引所かな。 その支援の結果、コロンブスは西暦1492年8月には出航し、大西洋を西に向かった。その2ヵ月後には新大陸アメリカ(正確には大陸じゃなくて島だったけど ・・・ )を発見したわけだ。(下の画像はグアダルキビル川のほとりの街セビリアの大聖堂にあるコロンブスのお墓の様子。)
最初の航海から戻ってきたコロンブスは、スペイン北東部カタルーニャ地方の港町バルセロナでカトリック両王に探検の報告を行ったらしい。このカタルーニャ地方ではコロンブスはカタルーニャの出身だとされている。だからバルセロナにコロン(コロンブス)記念塔があるのかな。
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