ポルトガルの発見のモニュメントの先頭に立つエンリケ航海王子ポルトガルの首都リスボンを流れるテージョ川(スペインの古都トレドの脇を流れるタホ川のこと)のほとりに立つ発見のモニュメントとベレンの塔は、いずれも大航海時代ゆかりの人気の観光スポットだよね。
そんな発見のモニュメントの先頭に立つのが、ポルトガルの大航海時代を切り開いたエンリケ航海王子(上の画像の先頭の人物)だった。エンリケ航海王子は西暦1460年に亡くなったんだけど、この発見のモニュメントは彼の没後500年を記念するために西暦1960年に建てられたんだそうな。
ポルトガル王ジョアン1世とエンリケ航海王子14世紀後半、ポルトガルの王位継承問題が混乱し、カスティーリャ王フアン1世はポルトガルに侵攻してきた。そんなカスティーリャの軍に対する勝利を得てポルトガルの独立を確保し、アヴィス朝の初代ポルトガル王となったのがジョアン1世だった。
ポルトガル王ジョアン1世は勝利を聖母マリアに感謝する為に、バターリャ修道院(勝利の聖母マリア修道院)を建立した。上の画像はその修道院の前に立つジョアン1世の騎馬像なんだ。
摂政コインブラ公ペドロとエンリケ航海王子ポルトガル王ジョアン1世は西暦1433年に亡くなった。王位を継承したのは嫡男のドゥアルテ1世だった。ところが、そのドゥアルテ1世も5年後に亡くなってしまう。ポルトガル王として即位したのは、わずか6歳のアフォンソ5世だった。間もなく幼王の摂政として選ばれたのが、コインブラ公ペドロだった。このコインブラ公ペドロはジョアン1世の息子にしてドゥアルテ1世の弟(つまりアフォンソ5世の叔父)、そしてエンリケ航海王子の兄にあたる。 余談ながら、このペドロ氏、若い頃にはヨーロッパ各地を旅していたらしい。イギリスの首都ロンドン、フランスの首都パリやブルゴーニュ、イタリアはローマやヴェネツィアなどなど。コンスタンティノープル(今のトルコのイスタンブール)を攻撃していたオスマン・トルコの皇帝ムラト2世に会ったこともあるらしい。面白い人物である。 帰国後に幼い甥のポルトガル王アフォンソ5世の摂政となったコインブラ公ペドロは、自分の娘を王に嫁がせ、オビドスのサンタ・マリア教会で結婚式を挙げさせている。 父王ジョアン1世や弟のエンリケ航海王子たちとモロッコ遠征にも同行したコインブラ公ペドロは、摂政として大西洋の探検航海を支援することを決定している。しかも、その支援の相手がエンリケ航海王子だったんだ。そんなポルトガルの大航海時代における貢献の故にか、コインブラ公ペドロの像も発見のモニュメントにある。それが下の画像の最も左、跪いて祈る女性のすぐ左側の人物なんだ。
但し、やがてポルトガル王アフォンソ5世が成長し、自ら国政を執ったのが西暦1448年。彼は摂政を離任した叔父を反逆者として攻め、コインブラ公ペドロは西暦1449年に亡くなっている。 ポルトガルの大航海時代を切り開いたエンリケ航海王子兄にして幼王の摂政でもあるコインブラ公ペドロの支援を受けたエンリケ航海王子は、ポルトガルの海外進出を更に推し進めた。船を派遣してアフリカ西岸を南下させ、アフリカ南部にも拠点を設けている。またエンリケ航海王子は、探検航海で得られた知識と経験を活用し、船の改善にも取り組んでいる。(下の画像はブラジルを発見したカブラルの船。ユーロ導入前のポルトガルの1000エスクード紙幣に描かれている。)
更には、エンリケ航海王子は航海術、地図、天文学などの知識や技術の発展にも貢献したらしい。そんなこんなで15世紀後半のポルトガルは進んだ航海技術を持っていたわけだ。
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