初代アヴィス朝ポルトガル王ジョアン1世西暦1385年5月、ポルトガルのコルテス(議会)は、アヴィス騎士団長のドン・ジョアンを王に選出し、初代アヴィス朝ポルトガル王ジョアン1世が即位した。しかし、先王の嫡出の王女ベアトリスと結婚していたカスティーリャ王フアン1世は黙っていない。その年の8月にはフアン1世指揮下のカスティーリャ軍がポルトガルに侵攻した。そのカスティーリャ軍に対するアルジュバロッタの戦いで勝利を得たジョアン1世は、ポルトガルの独立と自分の王位を守り抜いたわけだ。
そのアルジュバロッタの戦いでの勝利を聖母マリアに感謝する為にポルトガル王ジョアン1世が建立したのが、上の画像にあるバターリャ修道院(勝利の聖母マリア修道院)だった。上の画像の右手に見えているのは、ジョアン1世の騎馬像なんだ。
ポルトガルとカスティーリャとの戦い西暦1249年にレコンキスタ(国土回復運動)を完了したポルトガルだった。でも、西暦1347年にフランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユに上陸したペスト(黒死病)は翌年にはポルトガルの社会に極めて深刻な影響をもたらしたらしい。そんな状況で西暦1367年に即位したポルトガル王フェルナンド1世は、スペイン南部アンダルシア地方のグラナダのナスル朝(世界遺産アルハンブラ宮殿で名高い)などとも連携してカスティーリャ王国と何度も戦ったそうな。しかし、首都リスボンにまで攻め込まれるなど、戦況は不利な状況になり、加えてポルトガルの人々も戦いに疲れてしまった。 かくして西暦1383年にはポルトガルとカスティーリャとの間に和約が成立した。でも、その中にはポルトガル王の唯一の嫡子である王女とカスティーリャ王との結婚が定められていた。そしてその年の秋、ポルトガル王フェルナンド1世が病気で亡くなった。フェルナンド1世の王妃は、娘婿となるカスティーリャ王フアン1世にポルトガルを委ねようとしたらしい。 カスティーリャ王フアン1世は西暦1384年1月にはポルトガルに入った。でも、カスティーリャによる支配を嫌ったポルトガルの多くの人々が抵抗した。首都リスボンもカスティーリャ王の入城を拒み、カスティーリャ軍の攻囲に耐えたらしい。そんな状況でペストが発生し、カスティーリャ王フアン1世はリスボンの囲みを解いてスペイン南部のセビリアに退いたんだそうな。
そして西暦1385年に初代アヴィス朝ポルトガル王ジョアン1世が即位し、カスティーリャ王フアン1世を打ち破ったというわけだ。(上の画像はバターリャ修道院の前のジョアン1世騎馬像を見上げた様子。)
ポルトガル王ジョアン1世が建立したバターリャ修道院カスティーリャとの戦いに勝利を得たポルトガル王ジョアン1世は、勝利を感謝してバターリャ修道院(勝利の聖母マリア修道院)を建立したんだけど、その修道院はポルトガルを代表するゴシック様式の建物とされている。(下の画像は、そのバターリャ修道院の内部の様子。)
ゴシック様式の建物といえば、フランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂が先駆であり、続いてノートルダム大聖堂やシャルトル大聖堂が名高いかな。でも、このポルトガルのバターリャ修道院には、イギリスのカンタベリー大聖堂やヨーク・ミンスターなどの影響が見られるんだそうな。百年戦争真っ最中の当時、カスティーリャはフランスと結び、ポルトガルはイギリスと組んでいたことが影響したのかもしれないね。
ポルトガルの大航海時代の幕開け長く続いたポルトガルとカスティーリャとの対立も、西暦1411年に成立した和約によって終息した。後顧の憂いを解決したポルトガル王ジョアン1世は海外進出に乗り出し、西暦1415年にはアフリカ北部のモロッコに進出したんだ。そのモロッコ遠征にはジョアン1世の息子たちも参加したんだけど、その中の一人が後にポルトガルの大航海時代を切り開いたエンリケ航海王子だった。
上の画像はポルトガルの首都リスボンにある発見のモニュメントなんだけど、人々の先頭に立っているのがジョアン1世の息子のエンリケ航海王子だね。ついでながら、エンリケ航海王子の後方(上の画像には写っていないけど)には、ジョアン1世の王妃フィリッパやエンリケ航海王子の兄のコインブラ公ペドロ(ポルトガル王アフォンソ5世の摂政にして義父)の像もある。いずれにせよ、このジョアン1世の子孫たちの統治下にポルトガルの大航海時代の最盛期がやってくるわけだ。
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