ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1460年、ばら戦争の最中のイギリスで、第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットの首がヨークの城門に吊るされた。


第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットが王に忠誠を誓わされた

イングランド王ヘンリー5世はイギリスとフランスの間の百年戦争を有利に戦い、西暦1420年のトロワ条約ではフランスの王位継承権を獲得するに至った。その後、ヘンリー5世自身は若くして亡くなったが、その息子であるヘンリー6世はイングランド王にしてフランス王(パリノートルダム大聖堂で戴冠)となっている。

ところが、その後の百年戦争はフランスに有利に進み、イギリスはフランスにおける領地の殆どを失なってしまった。そんな不利な状況についてサマーセット公の責任を追及すべく、イングランド王ヘンリー6世に直談判しようとしたのが第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットだった。

イギリスの首都ロンドンにあるセント・ポール大聖堂

ところが、イングランド王ヘンリー6世にとってサマーセット公は極めて親しい関係にある貴族だった。逆にヨーク公リチャードは軟禁された挙句に、セント・ポール大聖堂で忠誠を誓わされている。(上の画像はロンドンを流れるテムズ川の南側から眺めたセント・ポール大聖堂。)

プランタジネット王家のヨーク公リチャード

ところで、この第3代ヨーク公リチャードは、プランタジネット家のイングランド王ヘンリー2世の血をひく名門の貴族だった。祖父の初代ヨーク公は、イングランド王エドワード3世の息子だった。

ところが、西暦1415年にリチャードの父親はイングランド王ヘンリー5世に対する反逆の嫌疑で処刑されており、リチャードは父親から何も相続することが出来なかったんだ。でも、リチャードを運は見放さなかったみたい。父親が死んだ年に伯父の第2代ヨーク公が戦死し、リチャードは伯父の唯一の男性相続人として成人の後には第3代ヨーク公となることとなった。

その後の第3代ヨーク公リチャードは、順調にイングランドの有力貴族への道を歩んでいた。百年戦争においてはフランスでのイギリス側の指揮官として功績を残していたんだ。ところが、ヨーク公リチャードがイギリスに戻り、ウェールズなどで所領の経営に携わっている間にフランスでの状況が悪化し、上に書いたような事態になったわけだ。

そして西暦1453年、フランス南西部のボルドーがついにフランスに奪われ、フランスにおけるイギリスの領地はほとんど無くなってしまった。それが実質的な百年戦争の終わりだった。その連絡を受けたイングランド王ヘンリー6世は精神を病み、国事を処理することも出来なくなってしまった。ヘンリー6世のお気に入りのサマーセット公はロンドン塔に幽閉され、代わりにヨーク公は護国卿となった。

ところが西暦1455年には、イングランド王ヘンリー6世が病から回復してしまった。ロンドン塔に幽閉されていたお気に入りのサマーセット公は復帰し、ヨーク公は護国卿から解任されてしまった。

ばら戦争とヨーク公リチャード・プランタジネット

ばら戦争がとうとう始まってしまった。ヨーク公リチャード・プランタジネットはウェールズ付近で軍を集めた。ウェールズの反乱などで戦闘経験の豊かな兵が多かったらしい。対するヘンリー6世とサマーセット公が集めた兵は少なかった。西暦1455年、両軍はロンドン近郊のセント・オバンスで戦い、サマーセット公は戦死し、イングランド王ヘンリー6世はヨーク公に捕えられたんだそうな。

イギリスの首都ロンドンにあるビッグ・ベンと国会議事堂、ウェストミンスター宮殿

ヘンリー6世はロンドンに連れて行かれ、再び精神を病んだらしい。やがて開催された議会でヨーク公が護国卿に復帰したんだそうな。(上の画像は国会議事堂となっているウェストミンスター宮殿。13世紀からイングランドの議会はここで開催される伝統になっている。)

ヨーク公リチャード・プランタジネットの王位継承権

その翌年の西暦1456年にはイングランド王ヘンリー6世が病から回復し、ヨーク公は護国卿の地位から降りている。表面的には両者は和解しているように見えていた。しかし、それぞれに戦いの準備を整えていたらしい。そして西暦1459年にはとうとう戦いが始まり、今度はヨーク公が敗れた。

アイルランド総督だったヨーク公はアイルランドへ、その仲間たちもそれぞれに海外へ逃れている。しかし、翌年の西暦1460年6月、反撃の準備を整えたヨーク公の仲間たちがイングランド南部に上陸し、7月にはロンドンに入り、更にはヘンリー6世の軍と戦ってイングランド王を捕えていた。

その年の10月、ロンドンでの議会において、ヨーク公リチャード・プランタジネットはイングランド王となることを求めたらしい。しかし、即位は認められず、その代わりにヨーク公とその子孫がヘンリー6世の王位継承権を得ることが認められたんだそうな。ヨーク公はこの時点でイングランドの支配者というべき存在だった。

敗れたヨーク公リチャードの首がヨークの城門に吊るされた

でも、ばら戦争はまだ始まったばかりだった。イングランド王ヘンリー6世のランカスター家の側に立つ人々は、ヨーク公に反撃する準備を整えようとしていた。スコットランドの王家の支援をも得ようとしていた。

そんな情勢に対応しようと、ヨーク公たちは北へ向かった。しかし、イングランド北部の要衝ヨークもランカスター家の手に落ちていた。そして西暦1460年12月、ウェイクフィールドの戦いにおいてヨーク公リチャード・プランタジネットは戦死したんだそうな。

イギリスのヨークにある市壁の城門ミクルゲート・バー

亡くなったヨーク公リチャード・プランタジネットの首は、ヨークの城門ミクルゲート・バー(上の画像)に吊るされたらしい。

ばら戦争、その後

イングランドの王位を目前としながらも戦死した第3代ヨーク公リチャードなんだけど、その息子はエドワード4世としてヨーク家のイングランド王となっている。しかし、精神を病んだヘンリー6世も再び復活してくる。ばら戦争はまだまだ続くわけだ。

その後も、ヨーク公リチャードの子孫には、エドワード5世、リチャード3世などが登場し、おかげでシェイクスピアはロンドンのみならず故郷のストラトフォード・アポン・エイボンに引退後の暮らしの為の豪邸を買うこともできるほどの題材を得ることになる。

ちなみに、ヨーク公の孫娘はテューダー家のイングランド王ヘンリー7世と結婚し、その子孫にはヘンリー8世やスコットランドのスチュアート王家のジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)などもいる。第3代ヨーク公リチャードは、近世から現代に至るイングランド王家の父祖にあたるとも言えるのかもしれないね。

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