ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1486年、イングランド王ヘンリー7世がヨーク家のエリザベスと結婚し、イギリスのばら戦争が終わった。


テューダー家のイングランド王ヘンリー7世と
ヨーク家のエリザベスの結婚

イギリスの首都ロンドンにあるウェストミンスター寺院 西暦1486年、ロンドンにあるウェストミンスター寺院(右の画像)で、テューダー家のイングランド王ヘンリー7世とヨーク家のエリザベスが結婚した。

ヘンリー7世は前年のボスワースの戦いでヨーク家のイングランド王リチャード3世を戦死させて王位を得たけれども、そのヨーク家のエリザベスとの結婚によって、長く続いたイギリスのばら戦争が終わったと言えるみたい。

ヘンリー7世はテューダー家の出身ではあるけれども、その母親からランカスター家の血を受け継いでいる。つまり、二人の結婚で、イングランド王位継承権を争うランカスター家とヨーク家とが合同したということらしい。

その結婚から生まれるテューダー家の子孫の王位継承権が強化され、ヨーク家の子孫がイングランド王位を求めて戦いを起こす可能性を封じることが期待されたらしいよ。

ヘンリー・テューダー(後のイングランド王ヘンリー7世)の誕生

テューダー家は元々はイギリス西部のウェールズ北部の豪族の子孫だった。西暦1400年から始まったオーウェン・グリンドゥールのウェールズ反乱の際には、イングランド軍と戦い、エドワード1世が築いたコンウィ城を攻略したこともあったらしい。でも、長引く反乱の過程でイングランドから出された大赦の誘いに応じて投降し、以後はイングランド王に従ってきた。

そんなテューダー家の一人でリッチモンド伯となっていたエドマンド・テューダーは、ランカスター家のヘンリー6世の為にウェールズ南部で戦い、ヨーク家の軍に捕えられ、西暦1456年に亡くなっている。その時点で、奥方のマーガレット・ボーフォートのお腹には赤ちゃんがいたんだそうな。

イギリスのウェールズの南西部にあるペンブローク城

マーガレット・ボーフォートは夫の弟であるペンブローク伯ジャスパー・テューダーの領地にあるペンブローク城(上の画像)にかくまわれた。その城で西暦1457年に生まれたのが、ヘンリー・テューダー(後のイングランド王ヘンリー7世)だった。エドマンド・テューダーの死の3ヵ月後のことだった。

母のマーガレット・ボーフォートはランカスター王家の血をひいており、その母から生まれたヘンリー・テューダーは、イングランド王となる王位継承権を引き継いでいた。

イギリスのばら戦争

ウェールズ南西部の城でヘンリー・テューダーが生まれる2年前の西暦1455年、ロンドン郊外にあるセント・オバンスでランカスター家のイングランド王ヘンリー6世と第3代ヨーク公リチャードが戦ったところからイギリスのばら戦争が始まっていた。

その後、西暦1460年に戦死した第3代ヨーク公リチャードの首は、ヨーク城門に吊るされた。でも、やがてそのヨーク公の息子がイングランド王エドワード4世として即位し、ヘンリー6世ロンドン塔(下の画像)に幽閉されて亡くなっている。

イギリスの首都ロンドンにあるロンドン塔

そんなヨーク家がイングランド王位を握る状況で、わずかに生き残るランカスター家の王位継承権を持つ若者ヘンリー・テューダーは、海を渡ってフランスに逃れたんだそうな。西暦1471年のことだった。

やがて西暦1483年にヨーク家のイングランド王エドワード4世が亡くなり、まだ少年だった息子のエドワード5世が王となった。ところが、その叔父(エドワード4世の弟)で摂政となっていたグロスター公が、少年エドワード5世とその弟リチャードの二人をロンドン塔に幽閉し、自らイングランド王リチャード3世として即位したんだ。

ヘンリー・テューダーの勝利とばら戦争の終息

イングランドがそんな状況下にあった西暦1485年、フランスに逃れていたランカスター家の生き残りの王位継承権者ヘンリー・テューダーが、ウェールズ南西部、生まれたペンブローク城の近くの海岸に上陸した。彼を支援するフランスやスコットランドの兵士たちも一緒に上陸したらしい。

ヘンリー・テューダーは、叔父で生誕前からの庇護者だったジャスパー・テューダーと共にウェールズからイングランドに進軍した。ウェールズはテューダー家の父祖の地であり、ランカスター支援者の多い土地柄だったこともあり、その軍勢は次第に増えていったんだそうな。

そして西暦1485年の夏、ボスワースの戦いでヘンリー・テューダーの軍とヨーク家のイングランド王リチャード3世の軍がぶつかった。兵力においてはヨーク家が有利だったものの、少なからぬ貴族たちの裏切りによってリチャード3世は戦死してしまった。

そしてランカスター家の血をひいたテューダー家のヘンリー・テューダーがイングランド王ヘンリー7世として即位し、上に書いたようにヨーク家のエリザベスと結婚して、イギリスのばら戦争を終息させるに至ったわけだ。

イングランド王ヘンリー7世に対する反乱

とはいえ、その後のイングランド王ヘンリー7世の治世が平穏だったわけじゃない。何度かの反乱もあったらしい。

西暦1487年には、アイルランド総督に支持されたウォリック伯エドワードがヨーク家のイングランド王エドワード6世としてダブリンにある大聖堂クライスト・チャーチで戴冠している。が、彼は実は名も無い職人の息子だった。本物のヨーク家のウォリック伯はロンドン塔に幽閉されていたらしい。

そして西暦1490年には「イングランド王エドワード5世の弟リチャード」(叔父のリチャード3世によってロンドン塔に幽閉された少年)であると称する人物(パーキン・ウォーベック)が登場し、ブルゴーニュ公妃(エドワード5世の叔母)の支持を得ている。

イギリスの南西部コーンウォールの海辺のセント・マイケルズ・マウント

西暦1497年には、その自称「ヨーク家のリチャード」(パーキン・ウォーベック)は数千人の兵士を率いてイングランド南西部のコーンウォールに上陸している。(上の画像はコーンウォールの海辺のセント・マイケルズ・マウントの風景。)

といっても、自称「ヨーク家のリチャード」の軍はあっさりと敗れ、「リチャード」は捕えられて処刑されたんだけどね。

テューダー家のその後

ヘンリー・テューダーが生き残り、イングランド王ヘンリー7世となるまでを支えたのは、父の弟のペンブローク伯ジャスパー・テューダーだった。というわけで、ヘンリー7世はジャスパー・テューダーをベッドフォード公に昇叙しただけじゃなく、元々のペンブローク城に加えてケルフィリー城カーディフ城をも与えたんだ。

ヘンリー7世は西暦1509年に亡くなっている。長男でプリンス・オブ・ウェールズとなっていたアーサーは既に亡くなっていたものの、次男がイングランド王ヘンリー8世として即位したんだ。

そのイングランド王ヘンリー8世は、後に再婚したアン・ブーリンをペンブローク女侯爵として、父ヘンリー7世が生まれたペンブローク城を与えている。きっと跡継ぎの男子誕生を期待したんだろうね。やがて生まれたのは女の子(後のエリザベス女王)だったけど。

ちなみに、ヘンリー7世の娘でヘンリー8世の姉のマーガレットは、スコットランド王と結婚した。その孫がロッホ・レーベンに幽閉され、脱出してエリザベス女王のイングランド王位をうかがったスコットランド女王メアリー・スチュアートだった。その息子はやがてスチュアート家のイングランド王ジェームズ1世となるんだけどね。

いずれにせよ、このイギリスのばら戦争からテューダー家の統治に至る間になんと多くの王や貴族たちがロンドン塔や戦場で命を落としたことか。おかげで多くの作品を生み出したシェイクスピアは、ロンドンや生まれ故郷のストラトフォード・アポン・エイボンに豪邸を買うことが出来たわけだ。

ヨーク家最後のイングランド王リチャード3世の遺骨

上にも書いたように、西暦1485年のボスワースの戦いでヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)に敗れたのがヨーク家最後のイングランド王リチャード3世だった。その戦いから500年以上が経った西暦2012年、リチャード3世の遺骨が発掘されたんだそうな。

戦死したリチャード3世はレスター市内の修道院に埋葬された。ところが、やがてその修道院は無くなり、リチャード3世のお墓の所在もわからなくなってしまった。ところが、大学の研究者が古地図を分析した結果、その修道院の跡地がレスター市内の駐車場であると推測し、発掘の結果としてその駐車場の地下から遺骨が発見されたんだそうな。

出土したリチャード3世の遺骨を調査したところ、伝えられていた通りに背骨が湾曲していたらしい。しかも、遺骨には10ヵ所もの傷があり、そのうちの8ヵ所は頭にあったとか。彼がボスワースの戦いで戦死したことが確認されたわけだ。

また、骨の分析の結果によれば、リチャード3世はイングランド王となった直後から食生活が一気にぜいたくになったらしい。しかも、毎日ワインをボトル一本分ほど飲んでいたんだそうな。骨の分析でそこまでわかることにも驚いちゃうね。

ちなみに、この遺骨がリチャード3世のものであるとの確認はDNA鑑定によるものだった。リチャード3世の姉の子孫にあたるカナダ人のDNAと比較したんだそうな。

そんなリチャード3世の遺骨は、あらためてレスター大聖堂に葬られることになった・・・と報道された。ところが、リチャード3世の子孫たちから異議が唱えられたらしい。彼らの主張では、ヨーク家ゆかりのイングランド北部の街ヨークにあるヨーク大聖堂(ヨーク・ミンスター)に埋葬すべきだとのこと。その争いの決着についてはまだ報道されていないみたいだね。

次のページ



姉妹サイト ヨーロッパ三昧

ヨーロッパ三昧

このサイト「ヨーロッパの歴史風景」の本館が「ヨーロッパ三昧」です。イギリス・フランス・イタリア・スペイン・ギリシャ・トルコ・エジプト・ロシア・アゼルバイジャンなど25国45編の旅行記を掲載しています。こちらも遊びに行ってみてくださいね。

「ヨーロッパ三昧」のトップ・ページのURLは、 http://www.europe-z.com/ です。

Copyright (c) 2002-2011 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
管理・運営 あちこち三昧株式会社
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。