ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1492年、ロドリーゴ・ボルジアがローマ教皇アレクサンデル6世として即位した。


ローマ教皇アレクサンデル6世となったロドリーゴ・ボルジア

西暦1492年、ローマ教皇インノケンティウス8世が亡くなった。イタリアの首都ローマサン・ピエトロ大聖堂聖人たちや歴代の教皇たちの墓の中に彼の墓もあるんだけど、イタリアの歴史家の評には「無用の人物」とするものもあったみたい。

そしてこのページの主役であるロドリーゴ・ボルジアがローマ教皇アレクサンデル6世として即位した。教皇の地位を金で買ったとも言われたんだけど、当時のヴァティカンの教皇庁の腐敗を更に悪化させたとも言われる人物だったそうな。「無用の長物」とどちらが良いのか、難しい問題だよね。

イタリアの首都ローマのヴァティカン美術館・博物館で見たボルジアの間にある自由七学芸の絵

このローマ教皇アレクサンデル6世はルネサンス期イタリアを代表する人文主義的な芸術愛好家だったとも言われている。イタリアの交通の要衝ボローニャにあるヨーロッパ最古の大学で法律を学んでもいる。上の画像は、そんな教皇が残した自由七学芸をテーマにする絵の一つなんだ。(ヴァティカン美術館・博物館の中のボルジアの間で見ることが出来る。)

ついでながら、上の画像の中に金色に輝く雄牛が見えるよね。この雄牛は教皇アレクサンデル6世の実家であるボルジア家の紋章だったそうな。

カトリック両王を結びつけたロドリーゴ・ボルジア

ローマ教皇アレクサンデル6世となったロドリーゴ・ボルジアは、スペインのヴァレンシアの出身だった。そのヴァレンシアはアラゴン王の支配下にあったんだけど、教皇になる前のロドリーゴ・ボルジアは王子時代のアラゴン王フェルナンド2世カスティーリャ女王イサベル1世の結婚を支援している。

二人は親戚関係にあったことから、結婚する為にはローマ教皇の許可が必要とされたんだけど、当時の教皇から結婚の許可を得るべく運動したのがロドリーゴ・ボルジアだったそうな。

そのおかげで結婚した二人は、カスティーリャに侵攻してきたポルトガル王アフォンソ5世との戦いに勝利を得て、カスティーリャ王位をポルトガルから守り抜くことが出来たらしい。

やがてカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世は、スペイン南部アンダルシア地方アルハンブラ宮殿で名高い古都グラナダを攻め落とし、イスラム教徒に対するスペインのレコンキスタ(国土回復運動)を完了させたわけだ。そんな二人にカトリック両王という称号を与えたのが、ローマ教皇アレクサンデル6世だった。

スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダの王室礼拝堂にある騎馬像

上の画像は二人が攻め落とした古都グラナダにある王室礼拝堂の祭壇の一部なんだ。カトリック両王のお墓もこの王室礼拝堂の中にある。ついでながら、このカトリック両王の孫がハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)となる。つまり、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲立ちは、広大な領域を支配したハプスブルク家の成立に大きな役割を果たしたわけだね。

ローマ教皇アレクサンデル6世とフランス王

西暦1494年、ナポリ王が亡くなった。ルネ・ダンジューからの権利の継承を主張するフランス王シャルル8世ナポリの王位を求めてイタリアに侵入。当初は戦いを挑もうとした教皇アレクサンデル6世だったが、フランス王の大軍の勢いを止めることはできなかった。

ローマを経て南下を続けたフランス王シャルル8世は、西暦1495年1月にはナポリを占領している。(下の画像は13世紀にアンジュー家のナポリ王によって築かれたヌオヴォ城。)

イタリア南部の街ナポリにあるアンジュー家ゆかりのヌオヴォ城

一度は大軍を率いるフランス王シャルル8世に膝を屈したローマ教皇アレクサンデル6世だった。でも、さすがに歴史に名を残すタヌキおやじはそのままでは終わらせない。旧知の関係にあるスペインのカトリック両王やミラノヴェネツィアなどと同盟を結び、フランス王に対抗する陣営を成立させ、シャルル8世を撤退させることに成功している。

ところが、ローマ教皇アレクサンデル6世は西暦1499年には次のフランス王ルイ12世と同盟を結び、息子のチェーザレ・ボルジアを支援させている。教皇庁の軍の司令官となり、加えてフランス軍の支援をも得たチェーザレ・ボルジアは、イタリア中部に覇権を確立するほどの勢いを示していた。

病に倒れたローマ教皇アレクサンデル6世

そして西暦1503年夏、ローマ教皇アレクサンデル6世が病に倒れた。続いて息子のチェーザレ・ボルジアも病に倒れた。そして8月、アレクサンデル6世が亡くなった。その遺骸はヴァティカン宮殿のボルジアの間の一画(下の画像)に安置されたらしい。

イタリアの首都ローマのヴァティカン美術館・博物館で見たボルジアの間の様子

ローマ教皇である父の威光を背景に自分の王国を築こうとしていたチェーザレ・ボルジアは、父の死の際に病床に臥していた。やがて彼は健康を回復したものの捕われの身となり、ナポリからスペインへと送られ、やがてナヴァーラとスペインとの間の戦いで戦死している。でも、ナヴァーラ王の妹とチェーザレ・ボルジアとの間に生まれた娘は後にフランスの貴族に嫁ぎ、その家系は今も続いているそうな。

「君主論」で名高いマキャベリは、このチェーザレ・ボルジアの言葉を伝えている。父の教皇が亡くなった場合の対策は事前に考えておいたと。でも、まさにその時に自分が病気で死にかけるとは思いもしなかったらしい。

次のページ



姉妹サイト ヨーロッパ三昧

ヨーロッパ三昧

このサイト「ヨーロッパの歴史風景」の本館が「ヨーロッパ三昧」です。イギリス・フランス・イタリア・スペイン・ギリシャ・トルコ・エジプト・ロシア・アゼルバイジャンなど25国45編の旅行記を掲載しています。こちらも遊びに行ってみてくださいね。

「ヨーロッパ三昧」のトップ・ページのURLは、 http://www.europe-z.com/ です。

Copyright (c) 2002-2013 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
管理・運営 あちこち三昧株式会社
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。