イタリア南部ナポリの王位を得たフランス王シャルル8世14世紀から15世紀にかけてのフランスは疲弊に苦しんでいた。まずはイギリスとの間に長く続いた百年戦争、14世紀半ばにフランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユに上陸して広まったペスト(黒死病)、そしてフランス東部ブルゴーニュ地方を本拠に自立を強めるブルゴーニュ公家。でも、それらの苦難を乗り越えたフランス王国の王権は強化され、ヨーロッパでも有数の強国となっていった。そして西暦1494年にイタリアに侵入したフランス王シャルル8世は、西暦1495年2月にはナポリの王となっている。下の画像はナポリのサンタ・ルチアから眺めたナポリ湾とヴェスヴィオ火山なんだけど、フランス王シャルル8世もこんな景色を眺めたのかな。
でも、このナポリ王としての戴冠は、フランス王の栄光の始まりではなくて、むしろ苦難の始まりでもあったみたい。シャルル8世に限らず、彼を継承したフランス王ルイ12世やフランソワ1世にとってもね。
ローマ教皇インノケンティウス8世によるナポリ王の破門元々フランス王家の親戚にあたるルネ・ダンジューが、シャルル・ダンジューの頃から続くナポリ王位の権利を主張していた。ところが、そのルネ・ダンジューが西暦1480年に亡くなり、彼の権利は本家であるフランス王ルイ11世が継承したとフランス側は言うわけだ。そしてルイ11世が亡くなり、その息子であるシャルル8世が諸々を相続したとされたんだ。そんなフランス王シャルル8世の欲に油を注いだのがローマ教皇インノケンティウス8世だった。当時のナポリ王フェルディナンド1世と対立した教皇は相手を破門し、フランス王シャルル8世にナポリ王となることを勧めたらしい。カトリックの頂点に立つ教皇に薦められ、シャルル8世はその気になっても無理はないよね。
ところが、ルネサンス期のローマ教皇の中でも最も評判の悪い人物の一人ともされるインノケンティウス8世はコロリと掌をかえしている。ナポリ王と和解した教皇は、西暦1492年には破門を取り消している。(上の画像はイタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂で見た教皇インノケンティウス8世の墓。)
ミラノ公の誘いにイタリアに侵入したフランス王シャルル8世ローマ教皇の誘いが中途半端に終わって不完全燃焼が続いていたフランス王シャルル8世の欲に火をつけたのは、ミラノ公となったルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)だった。(彼は傭兵隊長からミラノ公となったフランチェスコ・スフォルツァの息子。)甥のミラノ公の死に伴いルドヴィーコ・スフォルツァが得た公位を脅かしたのが、ナポリ王だった。そのうるさいナポリ王を黙らせるためにミラノ公が誘いをかけた相手がフランス王シャルル8世だった。(下の画像はミラノのドゥオモ(大聖堂)の外観。読者のKaoringoさんに戴いた画像なんだけどね。)
ミラノ公の誘いに乗ったフランス王シャルル8世は西暦1494年に大軍を率いてイタリアに乗り込んでいった。小国に分裂していた当時のイタリアには、彼の大軍を阻むことの出来る勢力はいなかった。
ナポリ王となったフランス王シャルル8世に対する神聖同盟イタリアを南下するフランス王シャルル8世の大軍が接近したフィレンツェでは、メディチ家が追放されてサヴォナローラの統治が始まった。ローマ教皇アレクサンデル6世は、息子のチェーザレ・ボルジアを同行させた。(チェーザレ・ボルジアはやがて離脱したけど。)そして数ヵ月後の西暦1495年2月にナポリを攻略したフランス王シャルル8世は、その地の王として戴冠したわけだ。ところが、彼に抵抗する力を持たなかったイタリアの支配者たちは、秘かに策を練っていた。
ローマ教皇アレクサンデル6世、ヴェネツィア、神聖ローマ帝国、アラゴン王フェルナンド2世などがフランスに対する神聖同盟を結成したのが同年3月のこと。フランス王をイタリアに引き込んだミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァまでも同盟に参加していた。
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