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西暦1450年、イタリアの傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァがミラノ公となった。
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イタリアの傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァ
フランチェスコ・スフォルツァは西暦1401年にトスカナ地方のピサの近くにある街サン・ミニアートで生まれた。父親の傭兵隊長ムツィオ・スフォルツァがナポリの王に仕えていたこともあって、フランチェスコは少年の頃にナポリ王国のトリカリコ伯とされている。(下の画像はサンタルチア近くにあるナポリ王の居城ヌオーヴォ城。)
フランチェスコ・スフォルツァは少年の頃から父と共に戦場に赴き、戦術に非凡な才能を発揮していた。やがて父の死の後には傭兵隊長となり、ナポリ王国やローマ教皇庁に雇われて戦ったらしい。
やがてミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに雇われた傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァは西暦1431年にヴェネツィアに対する戦いで著しい戦功を残した。ミラノ公はそんな彼と自分の娘を婚約させている。ところが、やがて彼はミラノ公と対立してその下を離れ、ローマ教皇やフィレンツェに雇われている。
しかし、西暦1440年にはナポリ王国内にある彼の伯領をナポリ王が占領してしまった。その伯領を奪い返す為、フランチェスコ・スフォルツァはミラノ公と和解し、婚約者となっていたミラノ公の娘と西暦1441年に結婚している。更にはナポリ王位を主張するルネ・ダンジューと同盟してナポリ王と戦ったそうな。
ミラノ公となった傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァ
その後の彼はヴェネツィアと組んで再びミラノ公とも戦っている。ところがそのミラノ公と再度の和解を行い、今度はミラノ国国軍の司令官となったんだ。そして西暦1447年、そのミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが亡くなった。後継者はなく、ミラノは共和国となったらしい。
対してフランチェスコ・スフォルツァはミラノの周囲に支配地を広げていった。そして西暦1450年、飢饉に苦しむミラノで暴動が起こった。そんな状況でミラノの人々はフランチェスコ・スフォルツァをミラノ公として迎えたんだそうな。
フランチェスコ・スフォルツァはミラノのスフォルツェスコ城に入り、その改修を行い、フィラレーテの塔(上の画像)の増築などを行った。このスフォルツェスコ城は、14世紀後半にヴィスコンティ家のミラノ公が居城として築いたものだったそうな。
ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの統治
ミラノ公となったかつての傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァは、まずは内政の改革を行っている。街を近代化し、税制を合理化し、その結果として財政が改善されたらしい。
またルネサンス期イタリアの文芸をも奨励したそうな。またサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(上の画像)の建立をも命じている。
更にはミラノ公フランチェスコ・スフォルツァはメディチ家の国父コジモとの協力関係を基礎として、西暦1454年にミラノ、ナポリ、フィレンツェの間にローディの和約を成立させ、続いてローマ教皇庁やヴェネツィアをも参加させて、イタリアに平和をもたらすと同時にヴィスコンティ家を継承するスフォルツァ家のミラノ公としての立場も確立している。
そんなフランチェスコ・スフォルツァの統治は、ミラノの人々の支持を得ていたらしい。しかし、通風などの病気に苦しんだ末、彼は西暦1466年に亡くなっている。「君主論」を書いたマキャベリは、彼を優れた君主として評価している。他方で、軍事力として傭兵隊長を使うことの危険性の代表的な事例にも挙げているんだ。
スフォルツァ家の終わりの始まり
フランチェスコ・スフォルツァが亡くなった時、息子のガレアッツォ・マリーア・スフォルツァはフランス王ルイ11世の軍に加わり、ブルゴーニュ公シャルル突進公の軍と戦っていた。母からの知らせで父の死を知った彼は、急いでミラノに戻り、ミラノ公位を継承した。
ところが、人々に慕われた父公とは反対に、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは残虐で好色でサディスティックだった。その結果として多くの人々の憎しみをかきたてた彼は、西暦1476年に廷臣たちによって暗殺されてしまった。32歳の若さだった。余談ながら、その暗殺はフィレンツェにおけるパッツィ家の陰謀を惹き起こしたとも言われている。
暗殺された父の後継者として、7歳のジャン・ガレアッツォ・スフォルツァがミラノ公となった。でも、実際の統治を行ったのは叔父(父の弟)にして摂政となったルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)だった。そして西暦1494年にはジャン・ガレアッツォが亡くなり、叔父ルドヴィーコが正式にミラノ公位を継承している。(ルドヴィーコが甥を毒殺したとの話もある。)
摂政そしてミラノ公としてのルドヴィーコ・スフォルツァは、ミラノのドゥオモ(大聖堂)やサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の建設工事を続け、更にはルネサンスの芸術家のスポンサーともなっている。例えば、ミラノにダヴィンチの名画「最後の晩餐」(上の画像)が残されているのも、彼の功績と言えるんだろうね。
更には彼は西暦1494年に神聖ローマ帝国皇帝マキシミリアン1世(皇帝カール5世の祖父)によって正式にミラノ公に叙されている。父親のフランチェスコ・スフォルツァもミラノ公にはなっているけれども、皇帝によって正式に叙されていたわけじゃなかったんだ。
その同じ年、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァはナポリ王アルフォンソとの対立を深めていた。そんなわけでミラノ公はフランス王シャルル8世にミラノ公領の通過を認め、その力を借りてナポリ王を抑え込もうと企んだんだ。でも、それがスフォルツァ家の終わりの始まりだった。
やがてフランス王シャルル8世はミラノにも食指を伸ばしてきた。次いでシャルル8世の後継者であるフランス王ルイ12世もミラノを要求してきた。ルイ12世の祖母はかつてのミラノ公家であるヴィスコンティ家の出身であり、王はその権利の継承を主張したわけだ。
結局、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァは西暦1500年に捕えられ、その8年後にフランスで幽閉されたまま亡くなってしまった。ルドヴィーコの長男マクシミリアンは西暦1512年にミラノ公となったけれども、3年後にはフランス王フランソワ1世に捕えられている。
ルドヴィーコの次男のフランチェスコ2世は、皇帝カール5世によって西暦1521年にミラノ公位を与えられたけれども、西暦1535年に亡くなり、スフォルツァ家の最後のミラノ公となってしまった。以後のミラノはハプスブルク家に帰属したんだ。
中世イタリアの乱世を巧みに生き抜いた傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァはミラノ公位を得たんだけど、その息子のルドヴィーコはフランス王を利用しようとして、かえってイタリアをハプスブルク家とフランス王家の戦いの舞台とし、その荒波に自ら溺れてスフォルツァ家を滅亡に追い込んだわけだね。
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