ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1464年、イタリアの古都フィレンツェの国父コジモ・デ・メディチが亡くなった。


追放されたコジモ・デ・メディチがフィレンツェの支配者に

イタリアの古都フィレンツェの実質的な支配者となり、後に国父とも称されたコジモ・デ・メディチは、西暦1389年に生まれている。彼の父ジョヴァンニ・ディ・ビッチが亡くなり、銀行などの莫大な財産と共にメディチ家の当主たる地位を継承したのは、西暦1429年のことだった。

まだ若いコジモ・デ・メディチではあったけれども、資力を以てフィレンツェの市政を左右する彼に対して、由緒ある名家の人々は反発を強めていた。そして西暦1433年、ルッカ攻略の失敗の責を負わせられた彼は罪を着せられ、捕えられてしまったそうな。

コジモ・デ・メディチはシニョーリア広場を見下ろすヴェッキオ宮殿(下の画像)のアルノルフォの塔の中の独房に放り込まれた。でも、裏から手を回した彼は、独房への収監からフィレンツェからの追放へと処分を変更させたんだそうな。

イタリアの古都フィレンツェのシニョーリア広場にあるヴェッキオ宮殿

独房を出たコジモ・デ・メディチは、パドゥアを経てヴェネツィアへと向かった。彼の所有する巨額の資金もフィレンツェから持ち出したらしい。そんな彼に追随する人々も資金をフィレンツェから持ち出したんだそうな。その結果、フィレンツェは資金の流出に苦しみ、結局は翌年には彼に対する追放刑を解き、コジモ・デ・メディチは帰還することができたらしい。

その後の彼は、表面に出ることを避け、しかし財力にものを言わせ、自分の影響下にある人々を公職に就け、実質的にフィレンツェの市政を左右していった。当時のシエナの司教は、「市政はコジモ・デ・メディチの屋敷で決定される。」と書いたそうな。

この国父コジモは、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァと親しい関係にあった。その関係を基礎に西暦1454年にミラノナポリフィレンツェの間にローディの和約を成立させ、続いてローマ教皇庁やヴェネツィアをも参加させて、イタリアに平和をもたらしている。それがフィレンツェとメディチ家の繁栄につながったのは言うまでもないよね。

ビザンティン皇帝も訪れたフィレンツェ公会議

西暦1439年、それまでフェラーラで開催されていた東西両教会(ローマのカトリック教会とコンスタンティノープルの東方正教会)の統一を議論する公会議がフィレンツェに移された。コジモ・デ・メディチがローマ教皇に働きかけ、費用も拠出したらしい。(そのフィレンツェでの公会議の場所となったのが、下の画像にあるサンタ・マリア・ノヴェッラ教会。)

イタリアの古都フィレンツェにあるサンタ・マリア・ノヴェッラ教会

このフィレンツェ公会議には、皇帝ヨハネス8世パレオロゴスに率いられたビザンティン帝国の人々も参加していた。それがルネサンスを育みつつあったフィレンツェの文化に大きな影響を与えたんだそうな。

しかし、結局のところ東西両教会の統一は実現できなかった。公会議において一定の合意は成立したけれども、その合意をビザンティン帝国に持ち帰った皇帝に対して強い反対が巻き起こったんだそうな。しかも、西暦1453年にはビザンティン帝国が滅亡してしまった。

ルネサンスの庇護者コジモ・デ・メディチ

圧倒的な財力と政治力を持つコジモ・デ・メディチは、ルネサンスの担い手である芸術家たちをも支援していた。例えば、下の画像の右側に見えているのは、彼が彫刻家ドナテッロに発注したダヴィデ像。西暦1440年頃に完成したものらしい。(フィレンツェにあるバルジェッロ博物館で見ることが出来る。)

イタリアの古都フィレンツェにあるバルジェッロ博物館で見たドナテッロの彫刻、右にダヴィデ像、左に洗礼者ヨハネ

つじでながら、上の画像の左側に見えるのは、同じくドナテッロによる洗礼者ヨハネ。西暦1415年頃の作品らしい。この作品もバルジェッロ博物館にあるんだ。

コジモ・デ・メディチはドナテッロのみならず、他の様々な芸術家を支援している。例えば、建築家ブルネレスキがフィレンツェのドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)のクーポラを完成させることが出来たのも、彼の支援によるものだった。修道女と駆け落ちして破門されたフィリッポ・リッピについて教皇にとりなして破門を解いてもらったそうな。

彼は学芸においても重要なパトロンだった。マルシリオ・フィチーノをしてプラトン全集をラテン語に翻訳させている。更には膨大な数の書籍の収集をも行ったそうな。

国父と称されたコジモ・デ・メディチ

そんなコジモ・デ・メディチが亡くなったのは西暦1464年のことだった。彼はサン・ロレンツォ教会に葬られている。このサン・ロレンツォ教会には後にメディチ家の礼拝堂も設けられたんだけど、下の画像はその天井画なんだ。コジモの時代には無かったものだけどね。

イタリアの古都フィレンツェのサン・ロレンツォ教会に設けられたメディチ家の君主の礼拝堂の天井画

亡くなったコジモ・デ・メディチに対してフィレンツェは「国父」なる称号を贈ったんだそうな。というわけで、彼は国父コジモと呼ばれる。あるいはコジモ・イル・ヴェッキオとも呼ばれるんだけど、「老コジモ」を意味するらしい。

彼の死後、息子のピエロ(通風病みのピエロと呼ばれる)が当主となり、次いでロレンツォ(イル・マニフィコ)と継承し、メディチ家の黄金時代へと向かっていく。でも、事件もいろいろと起こっていく。長くなり過ぎちゃうから、ここでは書かないけどね。

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