メディチ銀行を設立したジョヴァンニ・ディ・ビッチ西暦1360年、イタリアの古都フィレンツェの羊毛商人アヴェラルド・デ・メディチに男の子が生まれた。このページの主役であるジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチだね。ところが、その3年後には父親のアヴェラルドが亡くなっている。さほど多くもない遺産は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチを含む5人の息子たちに分配されたそうな。やがて成長したジョヴァンニ・ディ・ビッチは、親戚のヴィエーリ・ディ・カンビオ・デ・メディチの銀行で働き始めた。西暦1385年にはピッカルダ・ブエリと結婚した。その花嫁の持参金はかなりの金額だったらしい。その持参金を勤め先の銀行に投資してパートナーとなり、銀行のローマ支店の支店長となっている。
上の画像は、高台のレストランのテラスから眺めたローマの風景なんだけど、右奥に見えるクーポラはヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂のものだね。但し、今のサン・ピエトロ大聖堂の建物は西暦1506年に建て替えが始まったものだから、ジョヴァンニ・ディ・ビッチの頃には古い大聖堂の建物だったけどね。
メディチ銀行の急成長西暦1397年、ジョヴァンニ・ディ・ビッチは自分の経営するメディチ銀行の本店を生まれ故郷のフィレンツェに移した。商工業の盛んなフィレンツェには、銀行にとって投融資のチャンスが多かったんだ。しかも、西暦1406年にはフィレンツェは港のあるピサを征服した。その結果として海への出口を確保し、それが商工業の成長を促し、更には彼の銀行に収益の機会をもたらしたわけだ。でも、メディチ銀行の急成長をもたらしたのは、ジョヴァンニ・ディ・ビッチとバルダッサレ・コッサとの関係だった。彼は西暦1402年に枢機卿となっている。でも、その為には巨額のお金を使ったらしい。そのお金を用意したのがメディチ銀行だった。 ローマ教皇に重用されていた枢機卿バルダッサレ・コッサは、メディチ銀行に教皇庁関連のビジネスをもたらし、それが巨額の利益を生み出したらしい。しかも、そんな枢機卿バルダッサレ・コッサが西暦1410年にはローマ教皇ヨハネス23世となっている。言うまでもなく、教皇庁の金融業務はメディチ銀行に委ねられ、利益は更に大きくなったわけだ。 ところが、当時は教会大分裂(シスマ)の真っ最中だった。教皇位を主張する人間が3人(その一人がヨハネス23世)もいて、互いに譲らなかった。結局、西暦1414年に招集されたコンスタンツ公会議によって3人の教皇は廃位されてしまった。しかも、ヨハネス23世は異端、聖職売買、不品行、殺人、その他さまざまな罪で有罪とされ、収監されてしまったらしい。
捕われのヨハネス23世を救い出したのが、ジョヴァンニ・ディ・ビッチだった。彼は巨額の身請け金を支払い、釈放された元教皇殿はフィレンツェに向かった。でも、その数ヵ月後にヨハネス23世は亡くなっている。ジョヴァンニ・ディ・ビッチはヨハネス23世の為にサン・ジョヴァンニ洗礼堂にお墓(上の画像の左奥の明るい部分)を作らせている。
フィレンツェの元首になったジョヴァンニ・ディ・ビッチジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチの「ビッチ」とは、「質素なヤツ」とか「地味な人間」などの意味を持つ言葉なんだそうな。確かにジョヴァンニ・ディ・ビッチはビジネスには熱心だけど、政治的には目立たないようにと心がけていたらしい。新興のメディチ家は、由緒あるフィレンツェの支配的な名家からはにらまれていたからね。
ところが、急成長したメディチ銀行はジョヴァンニ・ディ・ビッチに巨額の資産をもたらし、フィレンツェでもトップクラスの納税者にしてしまった。そんな彼は公職を逃れるわけにはいかなくなったんだ。いくつかの公職を経て、西暦1421年には正義の旗手(元首)に就任している。(上の画像はフィレンツェの政治の中心シニョーリア広場を見下ろすヴェッキオ宮殿。)
ジョヴァンニ・ディ・ビッチの死とその後のメディチ家西暦1429年、メディチ銀行を設立してヨーロッパ有数の富豪となったジョヴァンニ・ディ・ビッチが亡くなった。彼が葬られたのは、生前に莫大な寄付をしていたサン・ロレンツォ教会だった。そのサン・ロレンツォ教会には、後にメディチ家の礼拝所も設けられ、そこに彼の子孫たちも葬られることになる。(下の画像はメディチ家の礼拝堂の天井画。)
彼が設立したメディチ銀行は、ローマ、ピサ、ミラノ、ヴェネツィアなどのイタリア各地の支店のみならず、更にはイギリスの首都ロンドンやフランスの商都リヨンなどにも支店を設け、発展していった。
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