ボローニャ大学で学んだバルダッサレ・コッサ14世紀も末が近づく頃、イタリアの街道の街ボローニャにある大学で法律を学んでいる学生がいた。その名はバルダッサレ・コッサ。このページの主役となる人物である。(下の画像はボローニャ市内にあるアルキジンナージオ宮殿。かつてボローニャ大学の校舎だった。)
この学生バルダッサレ・コッサは西暦1370年にナポリ近くの島で生まれている。父は貴族だったけれども、落ちぶれていたらしい。バルダッサレ・コッサ自身は兵士となったこともあるとか、海賊だったこともあるという話も伝えられるけど、定かではない。但し、少なくとも彼の二人の兄弟は海賊として処刑されたんだそうな。
枢機卿となったバルダッサレ・コッサ聖職者となったバルダッサレ・コッサは、やがてローマのヴァティカンで教皇ボニファティウス9世の下で働き始めた。(下の画像はローマのヴァティカンにある今の教皇宮殿とサン・ピエトロ大聖堂を遠望した様子。)
有能だったバルダッサレ・コッサは教皇の信頼を得て、西暦1402年には枢機卿になっている。但し、枢機卿となる為には相当のお金を使う必要があったそうな。そのお金を用意したのが、フィレンツェのメディチ家の当主にしてメディチ銀行の設立者だったジョヴァンニ・ディ・ビッチだった。当然ながらメディチ銀行は見返りとして巨額の利益を得ている。 対立教皇ヨハネス23世と教会大分裂(シスマ)枢機卿バルダッサレ・コッサはローマの教皇庁で働いていた。でも、当時はフランス南部の街アヴィニョンにも教皇庁があったんだ。というのも、西暦1378年から始まった協会大分裂(シスマ)の最中でローマにもアヴィニョンにも教皇がいたからね。そんな教会大分裂(シスマ)を克服すべく、多くの人が努めていたんだけど、枢機卿バルダッサレ・コッサもその一人だったそうな。そして西暦1409年、ピサに公会議が招集された。その公会議によって新しい教皇として選出されたのがアレクサンデル5世だった。でも、ローマの教皇もアヴィニョンの教皇も自分の廃位を認めなかった。つまり、二人ではなく、三人の教皇が並び立つこととなってしまったんだ。 その翌年、ピサ公会議によって選出されたアレクサンデル5世が急死した。その公認として選出されたのが、枢機卿バルダッサレ・コッサだった。彼は教皇(対立教皇)ヨハネス23世として即位している。といっても、三人の教皇が並び立つ状況は解決されていないんだけどね。 そこに登場したのが、神聖ローマ帝国の皇帝ジギスムントだった。彼はコンスタンツに公会議を招集した。そこで決定されたのが並び立つ三人の教皇の廃位と新しい教皇マルティヌス5世の選出だった。
ヨハネス23世は対立教皇とされ、その教皇としての選出は無効なものとされた。のみならず、殺人、異端、聖職売買、不品行、更に様々な罪(あまりにお下劣でここには書けない・・・)で有罪とされ、ハイデルベルクで収監されてしまったそうな。(上の画像はドイツの街ハイデルベルクの旧市街。)
フィレンツェで亡くなった対立教皇ヨハネス23世ドイツで収監されていた対立教皇ヨハネス23世が釈放されたのは西暦1418年のことだった。といっても、罪を許されたわけじゃない。イタリアの古都フィレンツェのメディチ家の当主ジョヴァンニ・ディ・ビッチが身請け金を払ってくれた結果だった。ヨハネス23世が即位してメディチ銀行は教皇庁の金融業務を委ねられて巨額を利益を得ていたから、その見返りだったのかな。
フィレンツェでメディチ家の庇護下で暮らし始めた対立教皇ヨハネス23世だったけど、半年後には亡くなってしまった。フィレンツェのドゥオモ(大聖堂)の前にあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂の中に彼は埋葬されている。メディチ家の当主ジョヴァンニ・ディ・ビッチは彫刻家ドナテッロに対立教皇ヨハネス23世の墓碑を作らせている。上の画像の左奥に見える明るい部分がそのお墓なんだ。
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