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西暦1407年、フランスにおいて、ブルゴーニュ公ジャン・サン・プール(無畏公・無怖公)の命により、オルレアン公ルイが暗殺された。
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ブルゴーニュ公ジャン・サン・プール(無畏公あるいは無怖公)
西暦1404年にヴァロワ家系初代ブルゴーニュ公フィリップ・ル・アルディ(大胆公あるいは豪胆公)が亡くなり、その息子ジャン・サン・プール(無畏公あるいは無怖公)が 2代目ブルゴーニュ公となった。
彼は子供の頃からフランドル(ベルギーなど)で過ごすことが多く、フランドル語を話すことも出来た。他方で、ブルゴーニュ公となる前にはニコポリス十字軍に参加して敗れ、オスマン・トルコの捕虜となった挙句に、巨額の身代金支払いと引き換えに解放されたという前歴も持っていた。(実はおっちょこちょいかも ・・・。)
ブルゴーニュ公ジャン無畏公と オルレアン公ルイとの対立
当時のフランスにおいては、フランス王シャルル6世の弟のオルレアン公ルイが大きな発言力を持っていた。それに対抗できたのは、先王シャルル5世賢王の甥にあたり、またフランスの中でも豊かなブルゴーニュ地方や商業の盛んなフランドルを領地としていたブルゴーニュ公ジャン無畏公(無怖公)だけだった。
西暦1405年8月には、5千人の兵を引き連れたブルゴーニュ公ジャン・サン・プール(無畏公)がフランスの首都パリに入城。その軍事力を怖れたオルレアン公ルイや王妃イザボーたちが王太子ルイを連れてパリを逃げ出すなんて事件もおきている。それ以後、ブルゴーニュ公ジャン無畏公とオルレアン公ルイとの対立は更に先鋭化したらしい。
独自の外交政策を追求した ブルゴーニュ公ジャン無畏公
他方で、ブルゴーニュ公ジャン無畏公は独自の外交路線を追求してもいる。例えば、西暦1406年12月には、その支配下のフランドル地方とイギリスとの通商条約を締結しているんだ。(意外に計算かも ・・・。)
当時のフランスはイギリスとの百年戦争を続けている状況だから、フランス王家との関係では問題あるふるまいだよね。(フランドルはフランス王国には属さず、神聖ローマ帝国に属していたとはいってもね。)
ちなみにフランドル地方では毛織物産業が盛んだったんだ。そして、その原料として羊の飼育が盛んだったイギリスで生産される羊毛が必要だった。それが上に書いた通商条約締結の背景にあったんだけどね。
ついでながら、上の画像はイングランド南部のホワイト・クリフのヒツジたち。イギリスではあちこちでヒツジを見かける。他にもウェールズ北部のスノードン山の麓だとか、ロンドンからも日帰りで行けるコッツウォルズとかね。特に春には子ヒツジたちが可愛い。
ブルゴーニュ公ジャン無畏公の命により オルレアン公ルイの暗殺
そんな状況下、西暦1407年11月に王弟のオルレアン公ルイが暗殺されちゃった。ブルゴーニュ公ジャン無畏公(サン・プール)の命令によるものだったらしい。
事件の数日後、暗殺の責任を追及されることを警戒したブルゴーニュ公ジャン・サン・プールは首都パリを離れた。オルレアン公ルイの未亡人で、イタリアはミラノのヴィスコンティ家の出身だったヴァレンティナ・ヴィスコンティはフランス王シャルル6世にブルゴーニュ公追及を訴えたんだ。
ところが、軍勢を引き連れてパリに入城したブルゴーニュ公ジャン無畏公には誰も歯向かえない。オルレアン公未亡人ヴァレンティナ・ヴィスコンティは、ロワールのほとりのブロワ城へと逃げ出すしかなかったんだ。(下の画像は、フランス西部を流れるロワール川に姿を映すブロワ城と街。)
軍事力を後ろ盾とするブルゴーニュ公ジャン・サン・プールに対しては、フランス王シャルル6世としてもオルレアン公ルイ暗殺の責任を追及できなかったみたい。
西暦1408年に軍を率いてパリに入城したブルゴーニュ公ジャンは、ルーブル宮殿でフランス王シャルル6世と謁見しているんだけど、暗殺の責任を追及されはしなかった。(上の画像は、パリのオルセー美術館のテラスからセーヌ川越しに眺めたルーブル美術館、つまり昔のルーブル宮殿。)
ブルゴーニュ公ジャン無畏公とオルレアン派との和解
オルレアン公ルイの暗殺についてのブルゴーニュ公ジャン無畏公の責任追及をフランス王シャルル6世に訴え続けていたオルレアン公未亡人ヴァレンティナ・ヴィスコンティ。ところが彼女は西暦1408年に失意のうちに亡くなってしまった。
残るオルレアン派のリーダーとしては、オルレアン公の地位を継承したシャルルしかいない。ところが、このシャルルは当時15歳だった。結局は父の暗殺についてブルゴーニュ公ジャン無畏公の責任を追及し続けることは出来なかった。(ついでながら、このオルレアン公シャルルの息子は後にフランス王ルイ12世となる。)
その結果、西暦1409年3月にはブルゴーニュ公ジャン・サン・プール(無畏公)とオルレアン派との間に和解が成立せざるを得なかった。その手打ち式が、フランス王シャルル6世夫妻、王太子ルイ夫妻、ブルゴーニュ公ジャン無畏公、オルレアン公シャルルなどのお歴々が出席の上で、シャルトル大聖堂で行われたんだ。
上の画像は、フランス王やブルゴーニュ公たちの手打ち式が行われたシャルトル大聖堂のステンド・グラス。左側のステンド・グラスは、12世紀の「ベル・ヴェリエールの聖母」と呼ばれるものなんだそうな。
その後の展開
その後、ブルゴーニュ公ジャン無畏公は首都パリに滞在し、有力者を宴会に招待したり贈り物をしたりして、支持者を増やしていったらしい。その贈り物の中には、当時からブルゴーニュ・ワインの代表として名高いボーヌのワインなどもあったらしいよ。
ところが、このままブルゴーニュ公の勢力が拡大し続けていったわけじゃない。一旦は矛を収めたオルレアン派も、このままおとなしくなったわけじゃない。続いているイギリスとの間の百年戦争もまだまだ波乱を巻き起こす。というわけで、この続きはそのうちに。
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