ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1478年、パッツィ家の陰謀によるロレンツォ・デ・メディチの暗殺が未遂に終わった。(イタリア)


フィレンツェに残るパッツィ家の礼拝堂

イタリアの古都フィレンツェに行けば、ドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)には入るよね。では、サンタ・クローチェ教会はどうかな。ドゥオモ(大聖堂)から歩いて10分ほどと近い上に、彫刻家ドナテッロなどの作品や「君主論」のマキャベリ地動説のガリレオなどのお墓もある興味深い教会なんだ。

フィレンツェのサンタ・クローチェ教会にあるパッツィ家の礼拝堂(イタリア)

そんなサンタ・クローチェ教会の一角にあるのが、パッツィ家の礼拝堂(上の画像)なんだ。15世紀半ばにブルネレスキによって建てられたものなんだそうな。(ブルネレスキはフィレンツェの大聖堂のクーポラの工事を行い、その完成に大きく貢献した建築家だね。)

そんなパッツィ家の礼拝堂の建設費用を支出したのがアンドレア・デ・パッツィ、フィレンツェきっての由緒ある名家にして銀行業を営んでいたパッツィ家出身の人物だった。

そんなパッツィ家の祖先の一人に、第1回十字軍(西暦1096年から1099年)に参加した人物がいた。エルサレム攻囲の際に城壁を真っ先に乗り越えていった勇者だったそうな。そのあまりの勇敢さの故に「イル・パッツォ(狂人)」とあだ名されたらしい。そこから彼の家はパッツィ家と呼ばれるにようになったとか。

そんなパッツィ家はフィレンツェの貴族の家柄だった。でも、西暦1342年に同家は貴族の地位を放棄している。フィレンツェにおいて公的な役職に就任するには、平民の身分であることが必要だったからなんだそうな。

メディチ家との対立

そんな由緒ある銀行家パッツィ家なんだけど、フィレンツェにおいては新興のメディチ家の勢いに押される状況となっていた。それどころか、メディチ家が実質的なフィレンツェの支配者になりつつあった。そんな状況をひっくり返すべく、彼らが近づいたのがローマ教皇シスト(シクストゥス)4世だった。

パッツィ家が提供する財政的な支援に対して、ローマ教皇はトルファにある明礬の鉱山の独占的な権利を与えるなどの優遇を以て報いている。ちなみに、毛織物を基幹産業とするフィレンツェにおいて、繊維の染色に欠かせない明礬は必要不可欠な資源だった。そんな明礬を他家に握られることは、フィレンツェの実質的な支配者となりつつあったメディチ家にとって懸念すべき事態だった。

ピサの斜塔、大聖堂、洗礼堂(イタリア)

更にローマ教皇はメディチ家に敵対的な動きを見せた。メディチ家に競合するフィレンツェの別の名家サルヴィアティ家出身のフランチェスコ・サルヴィアティをピサの大司教に指名したんだ。(上の画像の奥にはピサの斜塔、その手前に大司教座たる大聖堂、手前に洗礼堂が見える。)

そのピサなんだけど、西暦1406年にフィレンツェによって占領され、この時点では従属的な地位に置かれていた。そのピサの大司教としてローマ教皇の息のかかる人物が着任されては、実質的にピサを奪われることになりかねない。そんなわけでメディチ家は新大司教がピサに赴任することを阻止したらしい。

パッツィ家の陰謀によるロレンツォ・デ・メディチ暗殺未遂

そんな膠着状態を打ち破るべく、ローマ教皇の甥の枢機卿ジロラーモ・リアーリオ、大司教サルヴィアティ、銀行家フランチェスコ・デ・パッツィなどが計画したのが、メディチ家の当主たるロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)とその弟のジュリアーノ・デ・メディチの暗殺だった。

西暦1449年に生まれたロレンツォ・デ・メディチは、西暦1469年に亡くなった父ピエロの後を継いでメディチ家の当主となり、フィレンツェの実質的な支配者としての地位を確立しようとしていた。その弟ジュリアーノは美男子で知られ、メディチ家の庇護を受けていた画家ボッティチェッリの絵のモデルとされたとも言われている。

フィレンツェのドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)の祭壇(イタリア)

そして西暦1478年、パッツィ家の陰謀が実行に移された。フィレンツェのドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)におけるミサの最中だった。ロレンツォ・デ・メディチは1ヶ所を刺されたものの暗殺者の手を逃れた。しかし、弟のジュリアーノは19ケ所に傷を受けて床に倒れ、出血多量で亡くなっている。(上の画像は現場となった花の聖母マリア大聖堂の祭壇付近の様子。)

ロレンツォ・デ・メディチの殺害に失敗した暗殺者たちは、フィレンツェ市民にメディチ家に対して立ち上がることを呼びかけた。しかし、逆に市民たちは暗殺者たちに襲い掛かった。フランチェスコ・デ・パッツィ、ヤコポ・デ・パッツィ、サルヴィアティ大司教など陰謀の加担者たちは処刑され、その他のパッツィ家・サルヴィアティ家の人々は市民権を剥奪されている。

ロレンツォ・デ・メディチによる事態収拾、しかし・・・

パッツィ家の陰謀は失敗に終わった。しかし、陰謀を背後から支持していたローマ教皇シスト(シクストゥス)4世が黙ってはいなかった。大司教の殺害を理由にロレンツォ・デ・メディチを破門し、フィレンツェにおける聖務停止を命じたんだ。更にローマ教皇は教皇庁の軍事を担っていたナポリ王フェルディナンド1世にフィレンツェへの攻撃を命じている。

ナポリのヌオーヴォ城(イタリア)

窮地に追い込まれたフィレンツェを救う為、ロレンツォ・デ・メディチは西暦1479年にナポリに赴いた。そこでナポリ王フェルディナンド1世と和解し、脅威の一つを取り除くことに成功している。(上の画像はナポリの海辺サンタルチア近くにあるヌオーヴォ城。13世紀後半に築かれ、15世紀前半に改築された当時のナポリ王家の居城。)

明けて西暦1480年、オスマン・トルコの脅威がイタリア南部に迫ってきた。その脅威に対する防衛に協力することと引き換えに、ロレンツォ・デ・メディチはローマ教皇との和解を獲得している。こうしてフィレンツェとメディチ家は危機を脱することが出来たわけだ。

余談ながら、実はフィレンツェとメディチ家は貿易を通じてオスマン・トルコと友好関係にあった。その関係を利用してロレンツォ・デ・メディチはオスマン・トルコをけしかけ、その結果が上に書いたローマ教皇との和解だったとの説もあるんだそうな。真相はわからないけどね。

その後のロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコあるいは豪華王)は政治的・外交的な手腕を発揮して、イタリア諸勢力の間に平和を維持している。更にはボッティチェッリのみならず、ミケランジェロダヴィンチなどの芸術家を庇護し、ルネサンスとフィレンツェとメディチ家の黄金時代を創出したと評価されているんだ。

しかし、黄金時代の次に訪れるのは衰退しかないよね。メディチ家の衰退の兆しはロレンツォの時代に既に見え隠れしていたらしい。その時点でメディチ家の銀行は巨額の赤字に苦しみ始めていた。また次女のマッダレーナをローマ教皇インノケンティウス8世の息子に嫁がせている。

後にそのインノケンティウス8世と国父コジモの盟友だったミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの息子のルドヴィーコ・イル・モールがフランス王シャルル8世のイタリア侵入を呼び込むことになるわけだ。

更にはロレンツォの保護下にあったピコ・デラ・ミランドラの頼みにより、フィレンツェのサン・マルコ修道院(今のサン・マルコ美術館)にサヴォナローラを復帰させる手助けをしている。

フィレンツェの統治者ロレンツォ・デ・メディチは西暦1492年に43歳の若さで亡くなる。でも、その後にメディチ家を襲うことになる悲劇は、彼の存命中に準備されつつあったんだね。その悲劇はまた別のページで ・・・ 。

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