ミラノに招かれたイタリアの天才 レオナルド・ダヴィンチ西暦1452年、イタリアのトスカナ地方のヴィンチ村でレオナルド・ダヴィンチが生まれた。フィレンツェの公証人の庶子だった。母は村の農家の娘だとされている。西暦1466年、ダヴィンチがヴェロッキオの工房に弟子入りした。その工房でボッティチェッリやギルランダイオと知り合ったらしい。
西暦1482年、ダヴィンチがミラノ大公の摂政だったルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)に招かれ、その宮廷に移った。(上の画像はミラノのスカラ座の前の広場に立つダヴィンチの像。)
ダヴィンチの名画「最後の晩餐」ミラノに移ったダヴィンチがルドヴィーコ・スフォルツァの依頼を受けて描いたのが、下の画像にある「最後の晩餐」だった。西暦30年にゴルゴタの丘でイエス・キリストは十字架にかけられるんだけど、その直前に弟子たちと共にした最後の晩餐の様子が描かれているわけだね。
ダヴィンチが「最後の晩餐」の制作を始めたのが西暦1495年のこと。完成したのは3年後の西暦1498年とされている。いろいろと悪名高いミラノ大公ルドヴィーコ・スフォルツァなんだけど、ダヴィンチに「最後の晩餐」の制作を依頼したのは、世界に誇ることの出来る最大のお手柄と言えるんだろうね。
伝統的な「最後の晩餐」との比較「最後の晩餐」はダヴィンチのみならず当時のヨーロッパでは多くの芸術家が取り組んだテーマだった。その結果、数多くの「最後の晩餐」が今も残されているわけだ。その一つが下の画像にあるギルランダイオの「最後の晩餐」だね。フィレンツェのサン・マルコ美術館で見ることが出来る。(ダヴィンチとギルランダイオはヴェロッキオの工房で共に学んでいる。)
このギルランダイオの作品の中では、イエス・キリストと弟子たちの頭には後光が描かれているよね。これが伝統的な表現だったらしい。対してダヴィンチの作品には後光が描かれていないんだ。
奇跡の名画「最後の晩餐」そんなわけで、新しい時代の芸術となった「最後の晩餐」は奇跡の名画とされるんだけど、もう一つ別の点でもこの作品は奇跡の名画なんだそうな。第二次世界大戦中の西暦1943年8月、イタリア本土への上陸を目前にした連合国軍は、北部の中心都市であるミラノに空爆を行った。ドゥオモ(大聖堂)には被害は生じなかったけれども、中世の大公たちの居城だったスフォルツェスコ城は手ひどい損傷を受けたそうな。
そしてサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(上の画像)の一角にある修道院の昔の食堂(その壁にダヴィンチの「最後の晩餐」がある)にも爆弾が落ち、建物の多くの壁が崩れ落ちたらしい。
スフォルツェスコ城で発見されたダヴィンチの絵西暦2013年11月、ミラノにあるスフォルツェスコ城のある部屋の壁の塗料の下から、未完成の絵が発見された。その部屋の天井にはダヴィンチの絵があったんだけど、壁に残された絵もダヴィンチの作品だったらしい。ダヴィンチがその壁の絵を描いたのは西暦1498年のことだったと考えられている。ところが、その翌年にはフランス軍が侵攻してきたものだから、絵を完成させることが出来なかったらしい。そんなわけで、彩色されない未完成の下絵の状態にあったんだそうな。 ちなみに、その部屋は18世紀初頭にオーストリア軍によって使用されていた。壁に白い塗料を塗ったのも彼らだったらしい。彩色もされていない下絵がまさかダヴィンチの作品だったとは思ってもみなかったんだろうね。
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