ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1484年、イタリアの歴史家グイッチャルディーニに無用の人物と評されたローマ教皇インノケンティウス8世が即位。


無用の人物と評されたローマ教皇インノケンティウス8世

イタリアの首都ローマサン・ピエトロ大聖堂の中に下の画像の墓碑がある。この墓碑は15世紀後半に活躍したルネサンスの画家・彫刻家アントニオ・デル・ポッライウォーロの作品なんだそうな。

イタリアの首都ローマのサン・ピエトロ大聖堂にある教皇インノケンティウス8世の墓碑

では、この墓碑の向こうに眠る人物はといえば、西暦1484年に即位したローマ教皇インノケンティウス8世なんだそうな。ローマ教皇といっても、けっして立派な人物だったとされてはいない。聖職をお金で売り渡し、身内を教会の中で出世させ、しかも女性に眼がなかったとか ・・・ 。そんな彼のことを16世紀初頭のイタリアの歴史家グイッチャルディーニは「無用の人物」と切り捨てているんだそうな。

ところが、このローマ教皇インノケンティウス8世が在位していたのは、まさに激動の時代だった。決して彼の力によるものではないけれども、歴史を動かす様々な出来事が起こったんだ。

イタリア南部の街ナポリと教皇インノケンティウス8世

西暦1432年、ジェノヴァでジョヴァンニ・バティスタ・チボー(後のローマ教皇インノケンティウス8世)が生まれた。イタリアの貴族の家に生まれた彼はイタリア南部の街ナポリの宮廷で育ったんだそうな。(下の画像はナポリのサンタ・ルチアから眺めたナポリ湾。遠くに見えるのは火山灰でポンペイを壊滅させたヴェスヴィオ火山。)

イタリア南部の中心都市ナポリのサンタ・ルチアから眺めたナポリ湾とポンペイを火山灰で埋めたヴェスヴィオ火山

やがて彼はローマ教皇の異母弟にあたるカランドリーニ枢機卿の従者として聖職者の一員となっている。続いて彼は司教となり、更にはジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(後の教皇ユリウス2世)の支援を得て枢機卿となった。そして11年後の西暦1484年、彼はローマ教皇インノケンティウス8世として即位したわけだ。

ところが、間もなく彼はナポリ王フェルディナンド1世と不仲になり、西暦1489年にはナポリ王を破門している。のみならず、ローマ教皇インノケンティウス8世はフランス王シャルル8世にナポリ王となるようにけしかけたんだ。

更にミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(傭兵隊長からミラノ公となったフランチェスコ・スフォルツァの息子)もシャルル8世をけしかけた。やがてフランス王は軍を率いてイタリアに侵入し、西暦1495年にはシャルル8世はナポリ王となっている。(その時点でインノケンティウス8世は既に亡くなっていたんだけどね。)

そんなフランス王シャルル8世の侵入のおかげで、イタリアは上を下への大混乱となった。特にフィレンツェでは名門メディチ家が追放され、サヴォナローラの統治が始まった。ローマ教皇インノケンティウス8世がフランス王をけしかけたもんだから、皆さんが大迷惑をしたわけだね。

ローマ教皇インノケンティウス8世と異教徒との戦い

ローマ教皇インノケンティウス8世は即位から間もなく異教徒に対する十字軍を送ることを呼びかけている。ところが、西暦1489年にオスマン・トルコのスルタンであるバヤジッド2世が年4万ドゥカットの支払を約束し、加えてイエスの処刑の際に使われたという聖なる槍を贈られると、その見返りとしてスルタン位を争うジェムのローマでの軟禁を引き受けている。本気で十字軍を送るつもりは無かったと解釈されている。

他方で、彼はアラゴン王フェルナンド2世の求めに応じてトマス・デ・トルケマダをスペインの異端審問所長官としている。その異端審問を政治的武器として使い、アラゴン王は自分の権力を強化したんだそうな。

スペイン南部アンダルシア地方の街グラナダの王室礼拝堂で見たアラゴン王フェルナンド2世の騎馬像

そのおかげと言って良いのかどうか、西暦1492年にはスペイン南部アンダルシア地方に残っていたイスラム教徒のナスル朝の都グラナダをアラゴン王フェルナンド2世が征服している。(上の画像はグラナダの王室礼拝堂にあるアラゴン王フェルナンド2世の騎馬像なんだけど、馬はイスラム兵を踏みつけている。)

スペインに残っていた最後のイスラム教徒の王国を征服したアラゴン王は、ローマ教皇インノケンティウス8世にイスラム教徒の奴隷100人を贈っている。教皇はその奴隷たちを腹心の枢機卿たちに分け与えたそうな。そして西暦1492年7月、グラナダ陥落の半年後、教皇は亡くなっている。

インノケンティウス8世とメディチ家のローマ教皇レオ10世

話は5年ほどさかのぼって西暦1487年のことなんだけど、インノケンティウス8世の息子フランチェスケット・チボーが結婚している。その相手がフィレンツェの名門メディチ家の当主であるロレンツォ・デ・メディチの娘マッダレーナだった。ヨーロッパでも有数の富豪であるメディチ家との関係を築きたかったんだろうね。

それから2年後の西暦1489年、マッダレーナの弟のジョヴァンニ・デ・メディチが枢機卿となった。といっても、その時点で13歳のジョヴァンニは助祭枢機卿とされ、正式に枢機卿となったのは西暦1492年3月のことだった。ローマ教皇インノケンティウス8世が亡くなる4ヶ月前だね。

先にも書いたけど、やがてフランス王シャルル8世のイタリア侵入の際にメディチ家はフィレンツェから追放される。若き枢機卿ジョヴァンニもヨーロッパを流浪したらしい。そして西暦1513年、枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチはローマ教皇レオ10世となった。

イタリアの古都フィレンツェをボボリ庭園のカフェから遠望

ローマ教皇レオ10世はスペイン軍の力を借り、フィレンツェに名門メディチ家を復活させている。名門メディチ家の人たちもインノケンティウス8世に振り回されたと言えるのかもしれないね。(上の画像はメディチ家ゆかりのピッティ宮殿の裏のボボリ庭園のカフェから眺めたフィレンツェの街。)

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