中世ブルゴーニュ公国の首都ディジョンに入ったフランス王の軍西暦1477年1月、文字通りに無謀な突進をしたブルゴーニュ公シャルル突進公が戦死してしまった。世継ぎの男子はなく、ただ一人娘のマリー・ド・ブルゴーニュとヴァロワ家系ブルゴーニュ公家のブルゴーニュを中心とする広大な領地が残されただけだった。ブルゴーニュ公シャルル突進公の戦死を聞いて、迅速に動いたのはフランス王ルイ11世だった。フランス王の軍は翌月には中世ブルゴーニュ公国の首都ディジョンに入っていた。
このディジョンの街には、ブルゴーニュ公家の思い出に関係するものも少なくないんだ。例えば上の画像にあるディジョンのノートルダム教会の屋根の上の仕掛け時計 ジャックマール(上の画像に見えている)は、ヴァロワ家系初代ブルゴーニュ公フィリップ・ル・アルディ大胆公(豪胆公)のフランドルでの戦いの際の戦利品だったりするんだ。
ブルゴーニュの反乱とフランス王ルイ11世でも、中世ブルゴーニュ公国の人々が直ちにフランス王ルイ11世の支配を受け入れたわけじゃなかった。王の軍が入った数ヵ月後の西暦1477年6月には、古都ディジョンの人々が反乱を起こしている。その反乱はブルゴーニュ各地に飛び火して、例えばブルゴーニュ・ワインの商都ボーヌでも反乱が起こったんだ。
上の画像はそのボーヌにあるオスピス・ド・ボーヌ(オテル・デュー)の様子なんだけど、この施設はかつてのブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン善良公の宰相だったニコラ・ロラン夫妻が設立したものだった。(この宰相は、パリのルーブル美術館にあるヤン・ファン・エイクの絵「宰相ロランの聖母」をも残している。)
フランス王ルイ11世に対するブルゴーニュの人々の忠誠の誓いでも、フランス王ルイ11世に対する反乱は、すぐに鎮圧されてしまった。そして西暦1479年7月にはフランス王ルイ11世が自ら中世ブルゴーニュ公国の古都ディジョンに入り、サン・ベニーニュ大聖堂(下の画像)で人々から忠誠の誓いを受けたんだそうな。
このディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂、ヴァロワ家系初代ブルゴーニュ公フィリップ・ル・アルディ大胆公(豪胆公)が叙任の際に人々の忠誠の誓いを受けた場所だった。つまり、中世ブルゴーニュ公国はここで始まり、ここで終わったと言えるのかもしれないね。
フランス王家とハプスブルク皇帝家とが結んだアラス条約迅速に動いたフランス王ルイ11世に対して反撃を加えたのは、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世のハプスブルク家だった。その息子マクシミリアンとブルゴーニュ公家の一人娘マリー・ド・ブルゴーニュが結婚したんだ。その後、マリー・ド・ブルゴーニュは西暦1482年に亡くなってはいる。が、ハプスブルク皇帝家のマクシミリアンとの間に生まれたフィリップ美公が母親からブルゴーニュ公家の所領の権利を継承したわけだ。 そんなこんなの挙句、西暦1483年にフランス王家とハプスブルク皇帝家との間で締結されたのがアラス条約だった。フランス王家はフランス王国内の狭義のブルゴーニュ公領を取り、ハプスブルク皇帝家はフランシュ・コンテ、オランダ、ベルギーなどを継承したわけだ。
フランス王家が継承した狭義のブルゴーニュ公領は、まさにブルゴーニュ・ワインの産地だった。そんなわけで、フランスは代表的なワイン産地を失わずに済んだわけだね。(ちなみに、上の画像はブルゴーニュの中でもグラン・クリュ・ワインを生み出すジュヴレ・シャンベルタン村の中でも別格のシャンベルタン・クロ・ド・ベーズのブドウ畑で収獲されたブドウ。)
フランス王家とハプスブルク皇帝家のその後フランス王ルイ11世としては、国内で強大な勢力を持っていたブルゴーニュ公家を滅ぼすことが出来た。でも、他方で結果的には更に強大なハプスブルク家を隣人として持つことになったわけだ。やがてフランス王フランソワ1世はマリー・ド・ブルゴーニュの血をひく神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)と長く戦い続けることになる。他方のハプスブルク皇帝家は、結果的にオランダやベルギーなどで所領を拡大することが出来た。でも、皇帝カール5世の息子のスペイン王フェリペ2世は、オランダ・ベルギーなどでの反乱・独立運動で長く手を焼くことになるわけだ。 歴史は時に皮肉なもんだよね。だから面白いんだけど。
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