ブルゴーニュ公シャルル突進公とアルザス地方西暦1467年にヴァロワ家系第4代ブルゴーニュ公となったシャルル・ル・テメレール突進公は、西暦1469年にハプスブルク家からアルザス地方を買い取っている。それ自体はブルゴーニュ公家の勢力拡大につながることだったろうね。
ところが、ブルゴーニュ公シャルル突進公が代官としてアルザス地方に送り込んだ人物が良くなかった。その代官の暴政に反発したアルザスの人々が、西暦1474年に反乱を起こし、シャルル突進公の代官を処刑しちゃったんだ。(上の画像はアルザス地方の街コルマールにあるプチ・ヴェニス地区の雪景色。このサイトの本館である「ヨーロッパ三昧」の読者 Kaoringoさんが送ってくれた画像なんだ。)
ロレーヌ地方やスイスとも敵対したブルゴーニュ公シャルル突進公他方、ブルゴーニュ公シャルル突進公が狙っていたロレーヌ地方(アルザス地方に隣接している)では、ロレーヌ公を称するルネ2世がブルゴーニュ公に戦いを挑んできた。その背後には、世界蜘蛛と称される策謀家のフランス王ルイ11世がいたんだそうな。しかも、そのフランス王ルイ11世は、アルザス地方やロレーヌ公ルネ2世と関係の深い、つまりブルゴーニュ公に敵対的なスイス諸州と同盟を結んでいた。 余談ながら、伝統的にフランス王家はスイスとの関係が深いんだ。例えば、フランス革命の際、襲撃されたテュイルリー宮殿のルイ16世とマリー・アントワネットを暴徒から守ってスイスの傭兵たちが全滅するまで戦ったこともあったそうな。
そんなスイス傭兵たちに捧げられたのが、上の画像にあるライオン記念碑。ライオンはフランス王家の紋章である百合の花のあしらわれた盾を守るように横たわっているんだ。(このライオン記念碑はスイスの街ルツェルンにある。)
ブルゴーニュ公シャルル突進公のスイスでの敗北ブルゴーニュ公シャルル突進公はフランス王ルイ11世と対抗するために西暦1474年にはイングランド王エドワード4世とロンドン条約を結んでいる。でも、その連携も翌年には意味を失ってしまった。そしてブルゴーニュ公シャルル突進公はいよいよ猪突猛進を始めたわけだ。西暦1475年秋にはロレーヌ公国の首都ナンシーを占領した。そして翌年1月、大軍を率いたシャルル突進公が向かったのがスイスだった。でも、その3月には大敗し、撤退する羽目に陥っている。 スイスといえば永世中立国だし、戦争とは縁遠い印象があるかもしれないね。でも、スイスは非武装中立をしているわけじゃなくて、立派な軍備で守りを固めた上で永世中立国となっているんだ。
しかも、中世には多くの傭兵を送り出すことで有名だった。むしろアルプスの中のスイスにとって傭兵は当時の重要な輸出産業だったのかもしれない。ちなみに、イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂は、今もスイス傭兵(上の画像)が守りを固めているんだ。ついでながら、モンテカルロのカジノで名高いモナコ公国の大公宮殿も、19世紀まではスイス傭兵が警護していたんだそうな。
ブルゴーニュ公シャルル突進公の戦死スイスで二度も敗れたブルゴーニュ公シャルル突進公。彼とロレーヌ公位を争っていたルネ2世がロレーヌ公国の首都ナンシーを奪還したのは西暦1476年10月のことだった。ブルゴーニュ公と対立するアルザス地方の諸都市やスイス諸州がルネ2世を支援したらしい。度重なる敗戦、ナンシーの喪失、ブルゴーニュ公シャルル突進公の頭には血が上っただろうね。直ちに兵を集めようとした。でも、既に多くの兵を失っていた為に、彼の指揮下に集まったのは訓練の出来ていない新兵ばかり2千ほどだったらしい。対するロレーヌ公ルネ2世の軍は、ベテランのスイス兵を含む1万5千。無謀な戦いだよね。
それでも進撃するのがブルゴーニュ公シャルル突進公だった。西暦1477年1月、ロレーヌ・アルザス・スイス連合軍に向かって突撃したブルゴーニュ公シャルル突進公の遺体が凍りついた沼で発見された。彼の豪華な上着はアルザス兵によって剥ぎ取られ、ストラスブール大聖堂に飾られていたらしい。(上の画像はストラスブール大聖堂の内部。)
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