カトリック両王の一人 カスティーリャ女王イサベル1世の戴冠西暦1474年12月、後にスペインのカトリック両王と称された夫婦の一人たるカスティーリャ女王イサベル1世が、セゴビアの街で戴冠の塗油を受けた。(下の画像は、セゴビアのアルカサルを遠望した風景。)
このカスティーリャ女王イサベル1世はやがてご主人と共にスペインの歴史、いやヨーロッパの歴史、いやいや世界史に名を残すことになる。でも、その即位までかなりの苦労をしているし、即位後の統治も順風満帆というわけにはいかなかったみたい。
アラゴン王フェルナンド2世との結婚西暦1454年、イサベル1世が3歳の年、父王のフアン2世が亡くなり、異母兄のエンリケ4世がカスティーリャ王として即位した。やがてエンリケ4世は政略の為にイサベル1世をポルトガル王アフォンソ5世に嫁がせようとした。そのポルトガル王はイサベル1世よりも19歳も年上だった。でも、当のイサベル1世は親戚でもあるアラゴン王国の王子フェルナンド2世と秘かに婚約したらしい。しかし、その親戚関係が結婚の障害となっていた。ところが、ヴァレンシア出身の枢機卿ロドリゴ・ボルジアがローマ教皇ピオ2世の許しを得て、二人の結婚が認められることになった。 イサベル1世は既に亡くなった弟の墓参りと称して兄王エンリケ4世の宮廷を逃れ、他方のアラゴンの王子フェルナンド2世は秘かにカスティーリャ王国に入り、やがて二人はバリャドリッドで結婚することが出来た。西暦1469年のことだった。
ちなみに、やがてスペインのカトリック両王と呼ばれることになる二人の結婚の許しを教皇から得た枢機卿ロドリゴ・ボルジアは、後にローマ教皇アレクサンデル6世となっている。上の画像はイタリアのローマにあるヴァティカン博物館の中のボルジアの間の天井画なんだ。教皇アレクサンデル6世は、この部屋を使っていたらしい。
カスティーリャ王位継承とポルトガルの介入西暦1474年、イサベル1世の異母兄たるカスティーリャ王エンリケ4世が亡くなった。残されたのは父親が誰なのか疑問があるとされる王女フアナと異母妹たるイサベル1世だった。イサベル1世を支持したカスティーリャ王国の貴族は少なくなった。でも、フアナを支持する有力貴族もいたらしい。西ゴート王国ゆかりの古都トレドの大司教も、故王エンリケ4世の王女フアナを支持していた。(下の画像は古都トレドの大聖堂の塔。)
このページの冒頭に書いたように、その年の内にカスティーリャ女王イサベル1世はセゴビアで戴冠の塗油を受けている。ところが、故エンリケ4世の王女フアナと結婚したポルトガル王アフォンソ5世(かつてイサベル1世との縁談もあったけど ・・・ )が王位継承に介入し、西暦1475年にはカスティーリャ王国に攻め込んできた。
カスティーリャ王国の内政とスペインのレコンキスタの完了兄王エンリケ4世の時代にカスティーリャ王国の秩序は乱れ、財政は危機に瀕していた。王位継承を確保した女王イサベル1世の課題はそんな王国の建て直しだった。カスティーリャ王国の内政が落ち着きを取り戻しつつあった頃、スペインに最後に残されたイスラム教徒勢力たるナスル朝の王室では内紛が起こっていた。カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世(カスティーリャ王としてはフェルナンド5世)は、西暦1482年にナスル朝への攻撃を始めている。
そして西暦1492年、スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダが陥落し、ナスル朝の最後の君主がアルハンブラ宮殿の鍵をカトリック両王に引き渡したんだそうな。(上の画像はアルハンブラ宮殿のパルタル庭園の様子なんだ。)
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