フランス王とブルゴーニュ公の世代交代西暦1435年にアラス条約が結ばれ、ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン善良公とフランス王シャルル7世との和解が成立した。西暦1453年にはイングランドとフランスとの間の百年戦争も集結している。それからしばらく経った西暦1456年10月、父王シャルル7世と対立した王フランス太子ルイ(後のフランス王ルイ11世)が出奔し、ブルゴーニュ公を頼ってきた。王太子の到着を聞いたブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン善良公は、フリースランド征服のために滞在していたオランダからベルギーのブリュッセル(ブラッセル)に移動し、フランス王太子を出迎えたらしい。
数年後の西暦1461年7月、フランスを百年戦争の危機から救った国王シャルル7世が亡くなり、王太子がフランス王ルイ11世として即位した。このルイ11世は、やがて世界の蜘蛛とも称される策謀家となっていくんだそうな。
イングランドのヨーク家と結んだブルゴーニュ公シャルル突進公即位の翌年には、ブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレール突進公は、ヨーク家のイングランド王エドワード4世の妹にあたるマーガレット・オブ・ヨークと結婚している。元来はブルゴーニュ公家はイングランドのランカスター家と近い関係にあったんだけど、百年戦争の終結後にイングランドではばら戦争が始まり、ランカスター家のイングランド王ヘンリー6世はロンドンのテムズ川のほとりにあるロンドン塔に幽閉されていた。そんなわけでブルゴーニュ公としてはヨーク家と結んだわけだ。
他方で、ヨーク家のイングランド王エドワード4世も苦闘の末に王となっている。父親の第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットは、戦いに敗れてヨークの城門にさらし首にされている。(上の画像はヨーク公がさらし首にされたヨークの城門ミクルゲート・バー。)
ブルゴーニュ公がアルザス地方をハプスブルク家から買い取ったヨーク家の王女との結婚の翌年、つまり西暦1469年には神聖ローマ帝国の皇帝家であるハプスブルク家がブルゴーニュ公家に近づいてきた。スイス諸州との争いが続いているハプスブルク家としては、近隣のブルゴーニュ公家との友好関係を維持・改善したいということらしい。更には財政難に陥っていたハプスブルク家からは、同家が昔から領有していたアルザス地方をブルゴーニュ公家に売却したいとの申し出があり、フランドルやネーデルランドがもたらす豊かな財政を謳歌していたブルゴーニュ公家は更なる領土の拡張を行うことが出来たんだ。
ついでながら、上の画像はアルザス地方の街リクヴィールにあるレストランで飲んだアルザスのワインと名物料理シュークルート。ブルゴーニュ公の本拠ブルゴーニュ地方に負けないくらいにアルザス地方では美味しいワインも料理も楽しめるんだ。
ブルゴーニュ公家、フランス王家、ハプスブルク皇帝家 ・・・そんなこんなで順調に成長を続けているかに見えるブルゴーニュ公家。でも、その先には悲劇が待ち受けていた。そんな運命に向かって突撃するブルゴーニュ公シャルル。そんなブルゴーニュ公の娘であるマリー・ド・ブルゴーニュは生涯に7回も婚約したらしい。そんなマリー・ド・ブルゴーニュが最後に結婚するのは ・・・。ブルゴーニュ公家、フランス王家、ハプスブルク皇帝家 ・・・ 最後に笑うのはいったい ・・・ 中世ヨーロッパ最大のドラマのクライマックスが近づきつつあるわけだね。
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