ブルゴーニュ公国の首都ディジョンで捕われのルネ・ダンジューオルレアンを解放したジャンヌ・ダルクが処刑された西暦1431年、フランス王シャルル7世の側に立っていたルネ・ダンジューがブルゴーニュ軍に捕えられた。(なお、ルネ・ダンジューはロレーヌ公位の継承問題でもブルゴーニュ公と対立していた。)
そのルネ・ダンジューは、ブルゴーニュ公国の首都ディジョンにあるブルゴーニュ公家宮殿の傍らにあるバールの塔(上の画像)に囚われていたんだそうな。(このルネ・ダンジューはブルゴーニュ公国の首都ディジョンに捕えられていたことで、のちに百年戦争の先行きに大きな影響を及ぼすことになるんだ。)
シャルル7世とヘンリー6世、二人のフランス王他方、この時期のフランスには二人の王がいた。一人はヴァロワ家のシャルル7世。ジャンヌ・ダルクの活躍もあり、西暦1429年にフランス王家の伝統に従い、ランスで戴冠式を挙げていた。
他方のランカスター家のイングランド王ヘンリー6世は、西暦1431年にフランスの首都パリのシテ島にあるノートルダム大聖堂(上の画像)で戴冠式を挙げていた。(先王ヘンリー5世の死により西暦1422年にフランス王を称してはいたけど。)
フランス、イングランド、ブルゴーニュ、三者の和平の動きところが、西暦1435年1月、ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン善良公とフランス王シャルル7世との間で和平交渉が始まった。その交渉の開始を仲介したのは、ブルゴーニュ公に捕われていたルネ・ダンジューだった。その半年後にはイングランドのランカスター王家、フランスのヴァロワ王家、そしてブルゴーニュ公家の三者がアラスに集まり和平会議が始まった。その会議の席には、西暦1415年のアジャンクールの戦いからずっとロンドン塔に幽閉されていたオルレアン公シャルルも参加していた。(下の画像はロンドンのテムズ川のほとりにあるロンドン塔。)
でも、イングランドとフランスとの協議は決裂し、オルレアン公シャルルもロンドン塔に戻っていった。但し、フランス王家とブルゴーニュ公家との和平の話し合いは続けられたんだそうな。
アラス条約と百年戦争の集結その後、西暦1435年9月には、フランス王シャルル7世とブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン善良公との間でアラス条約が成立した。(下の画像はブルゴーニュ公国の首都ディジョンにあるブルゴーニュ公家の宮殿なんだけど、宮殿の上にそびえる塔はフィリップ善良公の塔と呼ばれる。)
そして西暦1436年4月にはイングランド軍の支配下にあったフランスの首都パリの人々が反乱を起こし、フランス軍がパリを奪還し、フランス王シャルル7世が18年ぶりにパリに入ったんだそうな。
イングランド、ブルゴーニュ、フランス、それぞれのその後西暦1415年からロンドン塔に幽閉されていたオルレアン公シャルルは、西暦1444年の休戦によって解放され、ようやく帰国し、父のオルレアン公ルイから受け継いだブロワ城に戻ることが出来た。間もなくブルゴーニュ公フィリップ善良公の娘と結婚し、生まれた男子はやがてフランス王ルイ12世として即位している。フランス王とブルゴーニュ公との和平交渉を仲介したルネ・ダンジューは、イタリアの傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァの協力を得てナポリ王位を主張し、ナポリに渡ったものの結局はナポリを維持することが出来ず、プロヴァンス伯としてフランス南部プロヴァンス地方の古都エクサン・プロヴァンス(エクス)で亡くなっている。 そのルネ・ダンジューからプロヴァンスを継承したフランス王家は、ナポリ王位をも継承したと主張してイタリアに攻め込み、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世と歴代のフランス王がイタリア戦争の泥沼に足を取られることになってしまった。 百年戦争で多くを失ったイングランドでは、ヘンリー6世はロンドン塔に幽閉されて亡くなり、ヨーク家とランカスター家との間のばら戦争が続き、結局はランカスター家の傍流のテューダー家のイングランド王ヘンリー7世の登場となった。 フランス王家と和解したブルゴーニュ公家は、フィリップ・ル・ボン善良公の息子のシャルル突進公が戦死してブルゴーニュ公家が断絶し、広大なブルゴーニュ公国の領地はハプスブルク家とフランス王家との間で分割されている。 但し、西暦1435年のアラス条約の交渉にブルゴーニュ公家から参加した宰相ニコラ・ロランは、ブルゴーニュ・ワインの商都ボーヌにオスピス・ド・ボーヌ(オテル・デュー)を残している。 そんなこんなで多くのドラマを生んだ百年戦争は、その終結後も様々な歴史の波紋を広げていったわけだね。
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