フィレンツェのサン・マルコ修道院にやって来たフラ・アンジェリコ西暦1436年、イタリアの古都フィレンツェにあるサン・マルコ修道院に一人のドミニコ派の修道士が赴任して来た。それがこのページの主役であるフラ・アンジェリコだった。(今はサン・マルコ美術館となっている。下の画像はその中庭の回廊なんだけど、今も修道院の面影があるよね。)
このフラ・アンジェリコは西暦1395年(あるいは1390年)にフィレンツェの北にある村で生まれたらしい。詳しいことはわかっていないんだけど、西暦1417年には画家となっていたとの記録があるんだそうな。
フィレンツェの国父コジモ・デ・メディチの支援当時のフィレンツェは、名門メディチ家の当主である国父コジモ・デ・メディチが実質的に支配していた。彼は何人もの芸術家を支援し、イタリア・ルネサンスの庇護者の一人となっていた。例えば彫刻家ドナテッロ(バルジェッロ博物館に名高いダヴィデ像がある)や建築家ブルネレスキ(フィレンツェの大聖堂のクーポラを完成させた)などが彼の支援を受けていた。
そんな国父コジモ・デ・メディチがフラ・アンジェリコを支援し、サン・マルコ修道院にいくつものフレスコ画を描かせたらしい。例えば上の画像は西暦1446年頃に完成されたと言われている「受胎告知」。今のサン・マルコ美術館で見ることが出来るんだ。もちろん、同美術館では他にもいくつもの彼のフレスコ画を見ることが出来るんだけどね。
ローマ教皇に呼び寄せられたフラ・アンジェリコでも、サン・マルコ修道院でいくつものフレスコ画を描いたフラ・アンジェリコの名声はローマ教皇の耳にも届いていた。そして西暦1445年、教皇エウゲニウス4世は彼をローマに呼び寄せたんだ。ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂の中の礼拝堂にフレスコ画を描く為だったそうな。(下の画像は今のサン・ピエトロ大聖堂。)
その後、フラ・アンジェリコがフィレンツェのサン・マルコ修道院に戻ることは無かった。ローマで制作をいった後にはフィエーゾレの修道院長となり、やがて再びローマに呼び寄せられている。そして西暦1455年にローマの修道院で亡くなったんだそうな。
福者(ベアート)アンジェリコフラ・アンジェリコは時にはベアート・アンジェリコとも呼ばれていたらしい。ベアートとは「福者」を意味する言葉なんだそうな。でも、彼は実際にはローマ教会によって福者とされたわけではなかった。ところが、西暦1982年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はフラ・アンジェリコを福者としたんだ。亡くなってから500年以上も経ってから福者になるなんて、天国のフラ・・・じゃなくて、福者アンジェリコも驚いたかもしれないね。 ついでといっちゃ失礼なんだけど、このローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は西暦1992年にガリレオ・ガリレイに謝罪している。地動説を説いたことで彼が裁判にかけられたことが不適切だったというわけだ。ガリレオは西暦1642年に亡くなっているから、それから350年を経ての謝罪だね。
上の画像はそんなローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の胸像なんだけど、長崎の大浦天主堂にある。教皇は西暦1981年に来日し、広島と長崎を訪れて平和を訴えている。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |