イタリアの古都フィレンツェのドゥオモ(大聖堂)イタリアの古都フィレンツェの風景の主役となる建物はと言えば、・・・それはドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)だよね。
上の画像はパラティナ美術館のあるピッティ宮殿の裏手のボボリ庭園のカフェから眺めたフィレンツェ中心部なんだけど、右手に見えるヴェッキオ宮殿も存在感があるものの、その左手にある巨大なクーポラが印象的なドゥオモ(大聖堂)に眼が行くよね。
フィレンツェのドゥオモ(大聖堂)の着工まで現在のフィレンツェのドゥオモ(大聖堂)の地下には、西ローマ帝国末期の4世紀から5世紀にかけての教会の遺構が埋もれているらしい。その最初期の教会が戦乱の中に崩壊した後、8世紀頃にロマネスク様式の教会(サンタ・レパラタ教会)が再建されたんだそうな。ところが、11世紀になるとそのサンタ・レパラタ教会の前に今のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の建物が建設され、司教座などもその新しい建物に移されたらしい。
ちなみに、「神曲」で名高いダンテは西暦1265年にフィレンツェで生まれ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受けたらしい。上の画像はそのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の中にあるモザイク画「最後の審判」なんだけど、13世紀の作品だというから、ダンテと同時代のものなんだね。
ドゥオモ(大聖堂)の脇にそびえるジョットの鐘楼ドゥオモ(大聖堂)の建設工事が続いていた西暦1334年には、建設責任者となっていたジョットによって鐘楼の建設が始められた。その鐘楼が完成したのが西暦1387年のこと。下の画像はドゥオモ(大聖堂)の脇にそびえるジョットの鐘塔をすぐ下から見上げた様子なんだ。
ところが、そんな建設工事の槌音は西暦1348年に止まっている。前年にフランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユに上陸した黒死病(ペスト)がこのあたりにまで広がってしまったんだ。フィレンツェのライバルだったシエナのドゥオモの拡張工事も同時期に止まったらしい。その後、フィレンツェの建設工事は西暦1349年には再開している。黒死病(ペスト)の被害がより甚大だったシエナでは工事の再開は無かったらしいけど。
フィレンツェのドゥオモ(大聖堂)の完成サン・ジョヴァンニ洗礼堂は洗礼堂として改修され、ジョットの鐘楼も完成し、残るはドゥオモ(大聖堂)そのものの建設工事だけとなった。ところが、15世紀初頭の時点で最大の課題は、ドゥオモ(大聖堂)の上の巨大なクーポラをどうやって完成させるのかということだった。その方法が公募され、応募したギベルティ、ドナテッロ、ブルネレスキなどの案が検討された。そして西暦1420年、工事が委ねられたのがブルネレスキだった。そのブルネレスキの指揮によってドゥオモ(大聖堂)が完成したのが西暦1434年のことだった。下の画像は今のフィレンツェのドゥオモ(大聖堂)とジョットの鐘楼の様子なんだ。
余談ながら、そのブルネレスキは彫刻家としても作品を残している。例えばフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会には彼の十字架のキリスト像がある。あの彫刻家ドナテッロが「これぞキリストだ」と絶賛した作品なんだそうな。ドナテッロ自身もサンタ・クローチェ教会に十字架のキリスト像を残しているんだけどね。
ちょいと余談なんだけど、フィレンツェでドゥオモ(大聖堂)へ行ったならば、ぜひともドゥオモ博物館には入っておきたいよね。ミケランジェロの未完のピエタ(ローマのサン・ピエトロ大聖堂にある彼のピエタとは別の作品)やサン・ジョヴァンニ洗礼堂を飾ったギベルティの天国の扉のパネルのオリジナルなどがあるからね。
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