「神曲」において地獄、煉獄、天国を旅するイタリアの詩人ダンテこの世の終わりにはイエス・キリストによる審判が行われ、その結果によって人間は地獄、煉獄、天国へと送られるというのがキリスト教(但し、煉獄はカトリックにしかないけど)の教えだよね。そんな地獄、煉獄、天国を巡る物語を叙事詩「神曲」に描いたのが、イタリアを代表する詩人のダンテ(ドゥランテ・アリギエーリ)だった。ダンテは西暦1265年にイタリアのトスカナ地方の街フィレンツェで生まれた。父親は金融業に携わる小貴族だったそうな。生まれたばかりのダンテは、フィレンツェの花の聖母大聖堂の前にあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受けたらしい。
上の画像はダンテが洗礼を受けたフィレンツェのトスカナ大公国洗礼堂にあるモザイク画なんだけど、キリストによる「最後の審判」を描いているね。ちなみに、ダンテの代表作「神曲」に描かれた地獄は、後にミケランジェロがローマのヴァティカン美術館・博物館の奥にあるシスティナ礼拝堂に描いた「最後の審判」にも影響を与えたんだそうな。
イタリアの街道の街ボローニャの大学で学んだダンテ子供の頃にラテン語、哲学、論理学、倫理学などを学んだダンテは、やがてイタリアの街道の街ボローニャにあるヨーロッパ最古の大学とされるボローニャ大学に進み、法律や哲学などを学んだらしい。下の画像はそのボローニャにあるアルキジンナージオ宮殿なんだけど、かつてのボローニャ大学の建物のひとつだったそうな。
ちなみに、このボローニャ大学にはヨーロッパ各地から多くの学生が集まっていた。時代は様々ながらもダンテの同窓生となるボローニャ大学の卒業生の中には、イギリスのカンタベリー大聖堂の大司教となったトマス・ベケット、天動説で名高いポーランドのコペルニクス、対立教皇ヨハネス23世などもいるんだそうな。
イタリアの古都ラヴェンナで「神曲」を完成させたダンテやがてダンテは郷里のフィレンツェに戻る。皇帝派に対する教皇派に属したダンテは、やがて街の統領の一人となった。余談ながら、西暦1300年には公務でサン・ジミニャーノを訪れているんだけど、その街の特産の白ワイン「ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ」を愛飲したんだそうな。ところが党派争いの末の政変が西暦1301年に起こり、ダンテはフィレンツェから追放されてしまった。その後のダンテは各地を転々としていたらしい。代表作となる叙事詩「神曲」の執筆を始めたのはその頃のこと、西暦1307年頃と考えられている。その後、西暦1318年頃にはイタリアの古都ラヴェンナの領主グイド・ノヴェッロ・ダ・ポレンタの庇護を得て、ラヴェンナの街に腰を据えたらしい。 そして西暦1321年、イタリアを代表する詩人ダンテはラヴェンナで「神曲」を完成させたんだ。ところが、その数ヵ月後にダンテは亡くなっている。(ちなみに、ダンテの墓はラヴェンナにある。彼の故郷フィレンツェからは何度も返還の要求が出ているらしいけどね。) 皇帝ホノリウスの遷都から西ローマ帝国の滅亡まで、更には東ゴート族の王テオドリックの時代を通じて、ラヴェンナは首都となっていた。そんなわけで古都ラヴェンナには5世紀や6世紀のモザイク画が多く残されているんだ。例えば、ガッラ・プラキディア廟やアリアーニ洗礼堂などにね。そんなラヴェンナのモザイク画について、ダンテは「色彩のシンフォニー」と表現していたんだそうな。
上の画像は、そんな古都ラヴェンナの歴史あるモザイク画の一つ、ガッラ・プラキディア廟の「良き羊飼いの図」なんだ。ダンテもこのモザイク画を見たんだろうか。
イタリア文学を代表する古典を残した詩人ダンテ詩人ダンテの代表作となった叙事詩「神曲」は、イタリア文学においても最高の古典とされているらしい。加えて、当時は知識人の著述における標準だったラテン語ではなく、より庶民的なトスカナ方言で著述したことで、ダンテの「神曲」はイタリア語の基盤ともなったとされている。そんなわけで詩人ダンテの像は、イタリア各地で見ることができるんだ。例えば下の画像の像はイタリア南部の街ナポリに立っていたもの。(正直に言えば「神曲」を読んだこともない私は、この像がダンテだとはその時点では知らなかった。ナポリの老舗のピザ屋さん「ポルタルバ」へピザを食べに行く途中でたまたまこの像を撮影したんだけどね。)
ところで、このダンテの「神曲」なんだけど、イタリア文学の最高の古典というわけではなく、世界の古典を代表する傑作とも評価されているらしい。非常に多くの芸術家に影響を与えたんだそうな。
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