少年テオドリック、ラヴェンナ以前後に東ゴート族の王となり、イタリアを支配して大王とも称されたテオドリックは、西暦454年にティウディミル王の子として生まれている。やがて少年テオドリックは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都コンスタンティノープルに送られた。父のテオディミル王と東ローマ帝国の皇帝レオ1世との間に結ばれた条約に従い、人質となる為だった。(下の画像はかつてのコンスタンティノープル、今のトルコのイスタンブールの風景。)
少年テオドリックは東ローマ帝国の宮廷で過ごし、古代ローマ帝国の統治や軍事について多くを学んでいる。更に彼は東ローマ帝国で重用され、軍事長官や執政官にも登用されたらしい。
東ゴート族の王テオドリック、イタリアに向かう成長したテオドリックはコンスタンティノープルを去り、西暦485年に東ゴート族の居住地に戻った。西暦488年には父王が亡くなり、テオドリックが東ゴート族の王となっている。そんなテオドリック王をイタリアへと向かわせたのは、東ローマ帝国の皇帝ゼノンだった。西ローマ帝国を滅ぼしてイタリアを支配していたオドアケルが皇帝ゼノンに敵対する勢力と結んだこともあり、オドアケルを放ってはおけないと考えたのが一つ。もう一つは同盟部族としてではあるけれども、東ローマ帝国領内に居住していた東ゴート族を帝国の外へ厄介払いしたいとも考えたわけだ。 東ゴート族を率いてイタリアへ向かったテオドリックは、オドアケルの軍との戦いに幾度かの勝利を得た。敗れたオドアケルはイタリアの古都ラヴェンナで籠城を始めた。浅瀬や湿地に囲まれた当時のラヴェンナは、守りに適した場所だった。西ローマ帝国の皇帝ホノリウスがラヴェンナに遷都したのもそんな背景があったわけだ。 オドアケルがラヴェンナでの籠城を初めて3年が経過した西暦493年、ラヴェンナの司教の仲介により、テオドリックとオドアケルが共同でラヴェンナを支配するという講和が成立した。こうして東ゴート族の王テオドリックはイタリアの古都ラヴェンナに入城することができたわけだ。ところがその数日後、祝宴の席でテオドリックが自らの手でオドアケルを殺害している。
こうしてイタリアの支配者となった東ゴート族の王テオドリックは古都ラヴェンナに宮廷を置いた。その宮廷の脇にテオドリックが5世紀末に建立したのが、世界遺産ともなっているサンタポリナーレ・ヌオヴォ教会だった。(上の画像はその教会の中に残る6世紀のモザイク画。)
東ゴート族とアリウス派上に書いたサンタポリナーレ・ヌオヴォ教会と同時期にテオドリック王が建立したのが、同じく古都ラヴェンナに残るアリアーニ洗礼堂だった。(下の画像はアリアーニ洗礼堂に残るモザイク画なんだけど、ヨルダン川でのイエス・キリストの洗礼を描いている。)
ところで、この洗礼堂の名「アリアーニ」なんだけど、「アリウス派」を意味しているらしい。当時の東ゴート族はテオドリック王も含めてアリウス派のキリスト教を信仰していたんだ。
大王テオドリックとはいえ、皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の登場はまだ先のこと。今はまだイタリアは東ゴート族の大王テオドリックの支配下にある。彼は周囲のゲルマン系諸部族との関係を強化して、支配の安定を目指していた。まずは自らフランク族の王クローヴィス1世の妹と結婚している。続いて自分の娘を西ゴート族の王アラリック2世と結婚させている。更には自分の妹をヴァンダル族の王トラスムンドと結婚させたんだ。更には西暦507年にはガリア(今のフランス)で西ゴート族が敗北を喫したんだけど、東ゴート族の軍をフランス南部プロヴァンス地方に送り込み、アルルの街を占領して、フランク族の進出を食い止めている。(下の画像はアルルに残る古代ローマ帝国時代の円形闘技場からの眺め。ついでながら、アルルは画家ゴッホが大好きな街だった。)
この時期のテオドリック大王は西ゴート族の実質的な支配者でもあったらしい。この時点での西ゴート族の王アマルリックは幼少であり、しかもテオドリックの孫にあたることから、彼は摂政として西ゴート族の王国を統治していたんだそうな。
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