東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)西暦483年、東ローマ帝国の領土であるダルダニア(今のマケドニア)で一軒の農家に男の子が生まれた。やがて男の子は近衛兵となっていた叔父(母の弟)を頼って首都のコンスタンティノープルに上り、そこで法律や神学を学んだらしい。その後、成長した男の子は叔父と同様に近衛兵となった。この男の子が後の皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)となる。西暦518年、ユスティニアヌスの養父となっていた叔父が東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の皇帝ユスティヌス1世として即位した。その叔父の下でユスティニアヌスは政治・軍事の経験を積上げていった。そして西暦527年には叔父の下で副帝となり、その数ヵ月後に叔父が亡くなったことによって甥は皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)として即位したというわけだ。
そんな東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の姿が、イタリアの古都ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会のモザイク画に残されている。上の画像の中央、黒っぽい服装の人物が皇帝ユスティニアヌス1世なんだそうな。(ちなみに、皇帝の左側に描かれているのは将軍ベリサリウスらしい。)
皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)によるイタリアの回復東ローマ帝国(ビザンティン帝国)で皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)が即位した時点で、既に西ローマ帝国は滅亡していた。イタリアもフランスもスペインもゲルマン系の人々によって奪われていたんだ。他方、皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)のお膝下であるコンスタンティノープルにおいても、西暦532年にはニカの乱が発生している。一時は皇帝も首都を脱出しようとしたらしい。でも、皇妃テオドラに励まされ、将軍ベリサリウスなどの奮闘によって、反乱を鎮圧することができたらしい。 そこから地中海とヨーロッパの全域を支配したかつての古代ローマ帝国の復興を目指す皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の再征服が始まる。まずは西暦533年には将軍ベリサリウスを送り、北アフリカのヴァンダル王国を征服している。 更にはイタリアを支配していた東ゴート王国の女王アマラスンタが殺害されたことにつけこみ、西暦535年には将軍ベリサリウスをイタリアへ送り込む。(オドアケルを滅ぼし、イタリアに東ゴート族の王国を築いたテオドリック大王は既に亡くなっていた。)
東ローマ帝国(ビザンティン帝国)軍はシシリア島からイタリア本土に上陸し、まずはナポリを攻略し、西暦536年にはローマをも占領している。(上の画像は古代ローマの発祥の地ともいうべきフォロ・ロマーノにあるパラティーノの丘の風景なんだ。)
東ローマ帝国(ビザンティン帝国)による東ゴート王国の滅亡西暦540年には西ローマ帝国の皇帝ホノリウスが首都を置き、やがてオドアケルや東ゴート王国の首都となったラヴェンナも東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の手に落ちている。その後も東ゴート王国との戦いは続き、ローマの争奪も繰り返されたそうな。でも、西暦553年には東ゴート王国を滅亡させ、イタリアを取り戻したわけだ。ちなみに、東ゴート族はアリウス派のキリスト教を信仰していたこともあり、彼らが首都を置いていた古都ラヴェンナにはアリウス派の教会がいくつもあったらしい。東ローマ帝国(ビザンティン帝国)はそんなアリウス派の教会を正統派の教会として改めて聖別したんだそうな。
上の画像は古都ラヴェンナにあるアリアーニ洗礼堂のモザイク画なんだけど、アリウス派の人々の為に設けられたこの洗礼堂も皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の支配下で正統派に改められたらしい。
皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)によるスパニア属州の設置皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の時代に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)はイベリア半島にも進出している。当時のイベリア半島はガリア(フランス)で敗北した西ゴート王国の支配下にあったんだけど、その王位継承の争いに乗じて西暦552年に進出したらしい。その結果、イベリア半島南部(今のスペイン南部アンダルシアからポルトガル最南部にかけての地域)にスパニア属州を設置している。(このスパニア属州は西暦624年には西ゴート王国に征服され、西暦711年にはイスラム半島はイスラム教徒によって占領されたけど。)
上の画像はスペイン南部の街コルドバにあるメスキータの中の円柱の森の様子。このメスキータはかつてイスラム教徒が築いたモスクだったんだけど、この多くの円柱は古代ローマ帝国や西ゴート王国の時代の宮殿などから流用したものらしい。皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)支配下の時代の円柱も使われているかもしれないね。
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