ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦527年、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)が即位した。


東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)

西暦483年、東ローマ帝国の領土であるダルダニア(今のマケドニア)で一軒の農家に男の子が生まれた。やがて男の子は近衛兵となっていた叔父(母の弟)を頼って首都のコンスタンティノープルに上り、そこで法律や神学を学んだらしい。その後、成長した男の子は叔父と同様に近衛兵となった。この男の子が後の皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)となる。

西暦518年、ユスティニアヌスの養父となっていた叔父が東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の皇帝ユスティヌス1世として即位した。その叔父の下でユスティニアヌスは政治・軍事の経験を積上げていった。そして西暦527年には叔父の下で副帝となり、その数ヵ月後に叔父が亡くなったことによって甥は皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)として即位したというわけだ。

イタリアの古都ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会にある東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の皇帝ユスティニアヌス1世や将軍ベリサリウスなどを描いたモザイク画

そんな東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の姿が、イタリアの古都ラヴェンナサン・ヴィターレ教会のモザイク画に残されている。上の画像の中央、黒っぽい服装の人物が皇帝ユスティニアヌス1世なんだそうな。(ちなみに、皇帝の左側に描かれているのは将軍ベリサリウスらしい。)

ついでながら、古都ラヴェンナには世界遺産となっている教会がいくつもあるんだけど、上の画像のモザイク画のあるサン・ヴィターレ教会もその一つ。加えて、ラヴェンナには西ローマ帝国末期から中世初期にかけてのモザイク画も多い。そんなラヴェンナのモザイク画をダンテは「色彩のシンフォニー」と表現したとか。

皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)によるイタリアの回復

東ローマ帝国(ビザンティン帝国)で皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)が即位した時点で、既に西ローマ帝国は滅亡していた。イタリアもフランスもスペインもゲルマン系の人々によって奪われていたんだ。

他方、皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)のお膝下であるコンスタンティノープルにおいても、西暦532年にはニカの乱が発生している。一時は皇帝も首都を脱出しようとしたらしい。でも、皇妃テオドラに励まされ、将軍ベリサリウスなどの奮闘によって、反乱を鎮圧することができたらしい。

そこから地中海とヨーロッパの全域を支配したかつての古代ローマ帝国の復興を目指す皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の再征服が始まる。まずは西暦533年には将軍ベリサリウスを送り、北アフリカのヴァンダル王国を征服している。

更にはイタリアを支配していた東ゴート王国の女王アマラスンタが殺害されたことにつけこみ、西暦535年には将軍ベリサリウスをイタリアへ送り込む。(オドアケルを滅ぼし、イタリアに東ゴート族の王国を築いたテオドリック大王は既に亡くなっていた。)

イタリアの首都ローマのフォロ・ロマーノにあるパラティーノの丘

東ローマ帝国(ビザンティン帝国)軍はシシリア島からイタリア本土に上陸し、まずはナポリを攻略し、西暦536年にはローマをも占領している。(上の画像は古代ローマの発祥の地ともいうべきフォロ・ロマーノにあるパラティーノの丘の風景なんだ。)

他方の東ゴート王国ももちろん無抵抗のはずはない。西暦539年にはミラノを占領して破壊している。

東ローマ帝国(ビザンティン帝国)による東ゴート王国の滅亡

西暦540年には西ローマ帝国の皇帝ホノリウスが首都を置き、やがてオドアケルや東ゴート王国の首都となったラヴェンナも東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の手に落ちている。その後も東ゴート王国との戦いは続き、ローマの争奪も繰り返されたそうな。でも、西暦553年には東ゴート王国を滅亡させ、イタリアを取り戻したわけだ。

ちなみに、東ゴート族はアリウス派のキリスト教を信仰していたこともあり、彼らが首都を置いていた古都ラヴェンナにはアリウス派の教会がいくつもあったらしい。東ローマ帝国(ビザンティン帝国)はそんなアリウス派の教会を正統派の教会として改めて聖別したんだそうな。

イタリアの古都ラヴェンナのアリアーニ洗礼堂にあるキリストの洗礼を描いたモザイク画

上の画像は古都ラヴェンナにあるアリアーニ洗礼堂のモザイク画なんだけど、アリウス派の人々の為に設けられたこの洗礼堂も皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の支配下で正統派に改められたらしい。

皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)によるスパニア属州の設置

皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の時代に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)はイベリア半島にも進出している。当時のイベリア半島はガリア(フランス)で敗北した西ゴート王国の支配下にあったんだけど、その王位継承の争いに乗じて西暦552年に進出したらしい。

その結果、イベリア半島南部(今のスペイン南部アンダルシアからポルトガル最南部にかけての地域)にスパニア属州を設置している。(このスパニア属州は西暦624年には西ゴート王国に征服され、西暦711年にはイスラム半島はイスラム教徒によって占領されたけど。)

スペイン南部アンダルシア地方の街コルドバのメスキータにある円柱の森

上の画像はスペイン南部の街コルドバにあるメスキータの中の円柱の森の様子。このメスキータはかつてイスラム教徒が築いたモスクだったんだけど、この多くの円柱は古代ローマ帝国や西ゴート王国の時代の宮殿などから流用したものらしい。皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)支配下の時代の円柱も使われているかもしれないね。

その他にも皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の時代の東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は東にササン朝ペルシャと戦い、フランク王国のイタリア侵入を阻止するなど各地で戦いを繰り広げたそうな。その結果、東ローマ帝国の最大版図を獲得したらしい。

その他にも皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)はニカの乱で焼失したアヤ・ソフィア大聖堂を再建し、ローマ法大全を編纂するなどの功績を残している。経済に置いても、今のイギリス南西部のコーンウォール地方で小麦を売って同地で産出される錫を買うなど活発な交易活動が展開されていた。

それでも皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の時代から東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の衰退が始まっていたそうな。活発な軍事活動と領土の拡大は軍事費の増大を招き、その結果として財政が悪化して増税に至り、経済の停滞を惹き起こしたとも言われている。

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