ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦526年、イタリアの支配者だった東ゴート族のテオドリック大王が亡くなった。


東ゴート族のテオドリック大王の死

西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルを殺害し、西ローマ帝国の古都ラヴェンナを拠点としてイタリアの支配者となったゲルマン系東ゴート族のテオドリック大王。そんな大王が亡くなったのが西暦526年のことだった。

上の画像は古都ラヴェンナの郊外に残るテオドリック廟。大王は自分が亡くなる数年前、西暦520年にこの廟を建てさせたらしい。古都ラヴェンナには世界遺産となっている教会などの建物がいくつもあるんだけど、このテオドリック廟もその一つなんだ。

テオドリック大王死後の東ゴート族の王国

テオドリック大王は男子を残さなかった。というわけで、大王の娘アマラスンタの息子(つまりはテオドリック大王の孫)にあたるアタラリックが東ゴート族の王位を継承している。とはいえ、王位継承の時点でアタラリックは10歳の子供だった。故に母のアマラスンタが摂政として統治を行ったらしい。

ところが、アタラリック王は西暦534年に18歳で亡くなってしまった。やむなく母のアマラスンタが東ゴート族の女王となっている。女王アマラスンタは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の皇帝ユスティニアヌス1世(大王)からも女王即位の承認を得ることが出来たらしい。

東ゴート族の女王となったアマラスンタは、古都ラヴェンナ郊外にサンタポリナーレ・イン・クラッセ教会を建立させている。上の画像はその内部の様子なんだけど、奥には聖アポリナリス(サンタポリナーレ)のモザイク画も見えているね。

東ゴート族内部の争いと滅亡

ところが、肝心の東ゴート族の内部では争いが絶えず、女王アマラスンタに敵対する勢力もいたらしい。女王の即位前のことだけど、フランク王国のアルル侵攻に対する防衛の際、反女王派に属する自軍の指揮官を暗殺したこともあったんだそうな。

ところが、西暦534年には女王アマラスンタに対する反乱が起き、女王は幽閉されてしまった。更に西暦535年には女王は暗殺されている。

対して、女王アマラスンタを承認していた東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)は、反女王派による東ゴート族統治を認めず、イタリアに軍を送り込んだ。東ローマ帝国軍はナポリ、続いてローマを攻略し、東ゴート王国の首都ラヴェンナに迫る。そのラヴェンナが陥落したのは西暦540年のことだった。

女王アマラスンタの暗殺の後、数人の人物が東ゴート族の王となった。その王たちは、あるいは自軍の兵士に殺害され、あるいは東ローマ帝国軍に捕えられ、あるいは戦死している。そんなこんなで西暦553年には東ゴート族の王国は滅亡してしまったんだ。

上の画像はラヴェンナにあるサン・ヴィターレ教会のモザイク画なんだけど、その建立が始まったのは6世紀前半のこと。テオドリック大王の時代あるいは女王アマラスンタの時代とされている。でも、この教会が完成した時には、古都ラヴェンナは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の支配下にあった。というわけで、この教会には皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)やその皇妃を描いたモザイク画も残されている。

礼拝堂にされたテオドリック廟

テオドリック大王を含めて東ゴート族の人々はアリウス派のキリスト教を信仰していた。故にラヴェンナにはアリウス派の為の教会や施設(アリアーニ洗礼堂サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会など)が建立されたんだ。でも、それらは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の支配下で正統派キリスト教の為に改めて聖別されている。

更にはラヴェンナ郊外にあるテオドリック大王の廟は小礼拝堂にされてしまったらしい。

上の画像は今のテオドリック廟の2階で見た斑石製の石棺なんだけど、半分に割れている。東ローマ帝国軍の兵士たちによってテオドリック大王の遺骸は捨てられたらしいけど、その際に石棺が割られてしまったんだろうか。

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