ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦520年頃、カムランの戦いでアーサー王が倒れた、と950年頃に書かれたウェールズ年代記は記す。(イギリス)


アーサー王伝説の残るコーンウォールとデヴォン
(イギリス)

侵入するアングロ・サクソン人と戦ったケルト人の英雄アーサー王伝説がコーンウォールとデヴォン地方には多く残されているんだけど、その両地方(イギリス南西部)の略図が下の画像なんだ。

イングランド南西部 コーンウォールとデヴォン地方の略図(イギリス)

上の略図の中央やや左にあるティンタジェル城はアーサー王生誕の地との説もある。ついでに、ここでは左側のランズ・エンド近くにあるセント・マイケルズ・マウントと右上のグラストンベリーを見ておいてね。この後の話で出てくるから。

アーサー王の最期

西暦950年頃に書かれたウェールズ年代記によれば、アーサー王は西暦520年頃のカムランの戦いで倒れたとされている。他のアーサー王物語によれば、ランスロットと戦う為に国を留守にしたアーサー王に対し、息子のモルドレッドが反旗を翻し、両者の戦いにおいて父子共に倒れたとされる。

アーサー王はその戦いで亡くなったのか。ところが、小船に乗せられたアーサー王はアヴァロンの島に渡り、そこで傷を癒したという話もあるんだ。

アヴァロンの島はセント・マイケルズ・マウントか ・・・

じゃあ、アーサー王が傷を治したといわれるアヴァロンの島は何処にあるのか。その候補の一つがランズ・エンド近くの島セント・マイケルズ・マウント(下の画像の中で沖合いに浮かんでいる島)なんだ。

アーサー王が傷を治したアヴァロンの島との説もあるセント・マイケルズ・マウント(コーンウォール、イギリス)

セント・マイケルズ・マウント ・・・ フランス語にすれば、モン・サン・ミシェル。そうあのフランス北部の世界遺産モン・サン・ミシェルと同じ名前になるね。このセント・マイケルズ・マウントはそのイギリス版というわけだ。

余談ながら、イングランド征服王ウィリアム1世のノルマン・コンクエストの際、モン・サン・ミシェルの修道院はウィリアム1世を支持したらしい。よって修道院はイングランドに所領を与えられた。その所領の中に、このコーンウォールのセント・マイケルズ・マウントも含まれていたらしいよ。

グラストンベリー・トールがアヴァロンの島か ・・・

そして、もう一つの候補は、グラストンベリーにあるトール(下の画像)という人工の丘。グラストンベリーの街は海に面しているわけじゃないんだけど、かつては沼の多い湿地帯に囲まれていたというから、この丘が島とされても不思議じゃないらしいよ。

アーサー王が傷を治したアヴァロンの島との説もあるグラストンベリーのトール(イギリス)

ところが、このグラストンベリーのトール(トー)の頂上では、アーサー王夫妻の墓が西暦1191年に発見されたと言う話もある。アーサー王はアヴァロンの島で治療を受けたのか、それとも葬られたのか ・・・。

グラストンベリー修道院にアーサー王の遺体が改葬されたのか ・・・

アヴァロンの島とも考えられるトールのあるグラストンベリーには、もう一つアーサー王のファンを集める場所がある。それが、下の画像にあるグラストンベリー修道院

アーサー王の遺体が改葬されたと伝えられるグラストンベリー修道院の廃墟(イギリス)

西暦1191年にグラストンベリー・トールの頂上で発掘されたアーサー王夫妻の遺体が、西暦1278年にこのグラストンベリー修道院に改葬されたという話があるんだ。その際には、ウェールズに遠征に行く途中のイングランド王エドワード1世が立ち会ったとも言われる。

その後、イングランド王ヘンリー8世の時代に修道院が解散させられ、いまではグラストンベリー修道院も廃墟となっているんだけどね。そんな何でも破壊しちゃうヘンリー8世もアーサー王伝説は破壊できず、今もアーサー王のファンがこのグラストンベリー修道院にやって来るわけだ。

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