ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦491年、アングロ・サクソン人がイングランド南部ペヴェンシーでケルト系ブリトン人を虐殺した。(イギリス)


古代ローマ帝国によるブリタニア(ブリテン島、イギリス)統治

紀元前55年、古代ローマ帝国のカエサル(シーザー)がブリタニア(ブリテン島、イギリス)に遠征した。といっても、カエサルはブリタニアを統治しようとしたわけじゃなくて、あくまでも一時的な遠征だった。その翌年にもカエサルはブリタニアに遠征しているけれども、それも同様に一時的なものだった。

ところが、西暦43年には古代ローマ帝国はブリタニアに常駐する軍団を送り込んできたんだ。今度は彼らはブリタニアを統治するつもりで来ていたらしい。そしてブリタニア南部(今のイングランド)は殆ど古代ローマ帝国の統治下に入ったわけだ。

但し、ブリテン島北部(今のスコットランド)については、ピクト人などの抵抗もあり、古代ローマ帝国の版図には入れることが出来なかった。故にハドリアヌスの長城(城壁)などを築いて守りを固めたわけだ。

ブリタニア南部ペヴェンシーでの城砦建設

対して、ブリタニア南部においては、特に守りを固める必要はさほどはなかったらしい。というわけで、今のイングランド南部の海辺にあるペヴェンシーにおいても、城砦は築かれてはいなかった。

ところが、3世紀頃から事情が変わってきた。ヨーロッパ大陸からアングロ・サクソン人が船に乗ってブリタニア(イギリス)南海岸を襲うようになってきた。というわけで、ブリタニア(イギリス)南部を支配する古代ローマ帝国の軍団も、英仏海峡のあちこちに城砦を築き始めたんだそうな。

イングランド南部ペヴェンシーの古城跡(イギリス)

そして、このイングランド南部のペヴェンシーにおいても、西暦340年頃に古代ローマ帝国の軍団が城砦を築いたらしい。(上の画像は今のペヴェンシーの古城跡。)

ペヴェンシーのケルト系ブリトン人

ところが、古代ローマ帝国は次第に衰退して行った。ブリタニア(イギリス)においては、時に攻勢をかけてくるピクト人に対する防衛に苦労していた。ヨーロッパ大陸においても、ゲルマン系アレマン人ブルグント人などが活発に活動していた。というわけで、西暦410年には古代ローマ帝国の軍団はブリタニア(イギリス)から撤退してしまったわけだ。

イングランド南部ペヴェンシーの古城跡(イギリス)

そして、古代ローマ帝国の軍団が残していったペヴェンシーの城砦(上の画像)などは、ブリタニアで暮らすケルト系ブリトン人が使い続けたんだ。

アングロ・サクソン人がペヴェンシーのケルト系ブリトン人を虐殺

それから80年ほど経った西暦491年、イギリス南部の海辺にあるペヴェンシーをアングロ・サクソン人(細かく言えば、サウス・サクソン人だったらしい)が占領した。そしてペヴェンシーの城砦の中にたてこもったケルト系ブリトン人たちを、皆殺しにしたんだそうな。

ちなみに、ペヴェンシーという地名はサウス・サクソン人が付けたらしい。また、ペヴェンシーを含むこのあたりの土地は、占領したサウス・サクソン人の名前から「サセックス」と呼ばれるようになったんだそうな。

念の為に書かなきゃいけないけど、ケルト人たちはアングロ・サクソン人たちに虐殺されっぱなしだったわけじゃないよ。もちろんケルト人たちも戦ったんだ。それが例えばアーサー王の伝説になるわけだし、ウェールズ北部などではケルト系のグウィネズ王国ノルマン・コンクエスト以後のヘンリー1世の時代でも戦い続けていたんだ。

余談ながら、同様のことはフランス北部でも起こっていた。例えば、今の世界遺産 モン・サン・ミシェルに砦を築いていたケルト人たちは、やがてアングロ・サクソン系フランク人に襲われて壊滅したんだそうな。

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