イングランド征服王ウィリアム1世が築いたヨーク城西暦1066年にノルマン・コンクエストを成し遂げたイングランド征服王ウィリアム1世だったけど、そのまま平穏にイングランド全土を統治できたわけじゃない。特に北部には不穏な空気が漂っていた。というわけで、ウィリアム1世は西暦1068年にはヨークに来て最初のヨーク城を築いたらしい。下の画像は今のヨーク城のクリフォード・タワーなんだけど、最初のヨーク城もここにあったんだそうな。
そのヨーク城なんだけど、翌年の西暦1069年にはデーン人と連携した反乱貴族によって奪われ、反乱を鎮圧したウィリアム1世によって翌年には再建・強化されたんだそうな。
イングランド王ヘンリー1世の即位父親のウィリアム1世が亡くなった西暦1087年には、ヘンリーは20歳前の若者だったんだろうね。そして兄のウィリアム2世がイングランド王となった。他方で、長兄のロバートはノルマンディ公となり、ヘンリーには領地を買う為のお金が残されたんだそうな。ちなみに、二人の兄は、どちらかが跡継ぎを残さずに死んだら、残った方が相続するという約束を結んでいた。 つまり、ウィリアム2世が息子を残さずに先に亡くなれば、ノルマンディー公ロバートがイングランド王となる。逆もまた同様。いずれにせよ、ヘンリーにはイングランドもノルマンディーも回って来ないと思っちゃうよね。 そして西暦1100年、イングランド王ウィリアム2世が狩猟の際の事故で亡くなった。他方で、ノルマンディー公ロバートは十字軍の遠征から帰国する途中で留守をしていた。 機敏に行動したヘンリーはまずは王室の財宝を確保し、次いでロンドンのウェストミンスター寺院でイングランド王ヘンリー1世として即位した。(右の画像は、イングランド南部にあるカンタベリー大聖堂にあるイングランド王ヘンリー1世を描いたステンド・グラス。) ちなみに、兄のウィリアム2世の死は、狩猟の際の矢が肺を貫いた結果だった。その矢を射ったのが誰か、どうもはっきりしない。しかも、その狩猟には、ヘンリーも同行していた。そして、兄の死から3日後にはヘンリーは即位を行うという素早さだった。推理小説ならば、まずヘンリーが疑われるよね。今も誰が犯人だったのか、議論が続いているらしいけど。
イングランド王ヘンリー1世のノルマンディー征服やがて十字軍の遠征から戻ってきた長兄のノルマンディー公ロバート(フランス風にはロベールかな)は、もちろん末弟のイングランド王位継承に納得できるはずがない。ウィリアム2世との約束によって、自分がイングランド王となるはずだ。というわけで、軍を率いてイングランドに侵入した。でも、ノルマンディー公ロバートは勝利を得ることが出来ず、結局はイングランド王ヘンリー1世と和平を結び、ノルマンディーに戻っている。
ところが、イングランド王ヘンリー1世としては、安心できない。いつまたノルマンディー公ロバートがイングランドに攻めてくるかわからないからね。というわけで、軍を率いたイングランド王ヘンリー1世は、西暦1105年にノルマンディーに侵攻したんだ。(上の画像は、ロンドンからパリへと向かうユーロ・スターの列車の車窓から眺めたノルマンディーの風景。)
イングランド王ヘンリー1世のその後他方で、イングランド王としてのヘンリー1世は、侵攻するノルマン貴族と対立していたウェールズ北部のグウィネズ王国と和解している。またヘンリー1世は、兄のウィリアム2世と同じく、カンタベリー大司教のアンセルムス(スコラ哲学の父)と対立したものの、後に妥協に至っている。イングランド王ヘンリー1世の統治は、概ね平穏だったと言えるかな。ところで、ノルマンディーで捕えられ、ロンドン塔に幽閉されていた兄のロバートなんだけど、後にディバイザズ城に送られ、更にはウェールズ南部にあるカーディフ城(下の画像)で幽閉されていた。
そしてロバートがカーディフ城で亡くなったのは西暦1134年のこと。28年にも及ぶ幽閉の末のことだった。
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