チェスター大聖堂に残る11世紀ノルマン時代の修道院の遺構イギリスの中に古代ローマ帝国が築いた街はいくつもある。イギリスの首都ロンドンを筆頭に、北のスコットランドをにらんだヨーク、ウェールズ北部のカーナフォン、そのウェールズをにらんだチェスターなどなど。そのチェスターにある大聖堂も歴史ある聖堂なんだそうな。その場所にはノルマン・コンクエスト以前にも教会があったらしいけど、更に古く古代ローマ帝国時代にもそこに教会があったという説もあるらしい。
とはいえ、今のチェスター大聖堂の建物の多くは12世紀から15世紀に建てられたものなんだそうな。でも、建物の一部には、11世紀にノルマン貴族によって建てられた修道院の遺構が残っている。それが上の画像の部分なんだそうな。
チェスター伯アヴランチェスのヒュー今のチェスター大聖堂のある場所に西暦1093年に聖ワーバラ修道院を建てたのは、チェスター伯だったアヴランチェスのヒューと呼ばれる人物だった。ヒューはフランス北部のノルマンディーの貴族で、ノルマンディー公ギョームの家臣となっていた。そしてノルマンディー公がイギリスに遠征する際には、ヒューは船を提供している。加えてノルマンディー公から信頼されていたヒューは、遠征の間のノルマンディーで留守居を任されていたんだそうな。 そして遠征が成功し、ノルマンディー公はロンドンのウェストミンスター寺院でイングランド征服王ウィリアム1世として即位する。そして西暦1071年、アヴランチェスのヒューは、チェスター伯となったんだ。
ウェールズ北部グウィネズ王国に侵攻したチェスター伯ヒューでも、チェスター伯ヒューは食えない男だった。西暦1081年には隣接するウェールズ北部にあるケルト系ウェールズ人の小王国グウィネズ王国の王グリフィズ・アプ・カナンに同盟を誘いかけて呼び寄せ、待ち伏せて王を捕らえている。グウィネズ王をチェスターの城に幽閉したチェスター伯ヒューは、仲間のノルマン人と一緒にウェールズ北部に侵攻し、グウィネズ王国の大部分を占領してしまった。 更にチェスター伯ヒューは、ウェールズ北部にあるバンガー(バンゴール)の司教として仲間のノルマン人を送り込んだ。西暦1092年のことだった。キリスト教を利用してウェールズの人々を従わせようというわけだ。(下の画像はバンガー大聖堂。)
ところが、ウェールズの人々は、チェスター伯が送り込んだバンガー(バンゴール)司教には敵意を抱き続けたらしい。イングランドのキリスト教の頂点にあるカンタベリー大聖堂の大司教に従うことも拒否していた。
ウェールズのグウィネズ王国の王グリフィズ・アプ・カナンの戦いそして西暦1093年、長い年月をチェスターの城に幽閉されていたグウィネズ王国の王グリフィズ・アプ・カナンが脱出し、自由を回復して、戦いを再開した。グウィネズ王国にチェスター伯ヒューが送り込んでいた彼の臣下を西暦1093年に戦いで殺害し、西暦1095年までにはグウィネズ王国のかなりの部分を回復していた。でも、西暦1098年にはチェスター伯ヒューと仲間のノルマン貴族たちが大軍を率いてウェールズ北部に攻め込んできた。ところが、ノルウェー王マグヌスに率いられた艦隊がチェスター伯以下のノルマン貴族軍を攻撃し、敗れたノルマン貴族軍はイングランドに撤退したんだそうな。 対して、グリフィズ王はグウィネズ王国の軍を率いて進撃し、領地を回復していった。チェスター伯ヒューがバンガー(バンゴール)に送り込んでいたノルマン人の司教は、イングランドに逃げ帰ったらしい。 そして西暦1101年、チェスター伯ヒューが亡くなった。他方でイングランド王ヘンリー1世とウェールズのグウィネズ王国のグリフィズ王との間の和平交渉がその年に合意に達し、ウェールズ北部には久々に平和が戻ったんだそうな。
ウェールズ北部でのイングランド王ヘンリー1世との戦いしかし、ウェールズ北部での平和は長く続いたわけじゃなかった。チェスターに対するウェールズ人の反乱者をグウィネズ王国のグリフィズ王がかくまったことで、西暦1116年にイングランド王ヘンリー1世がグウィネズ王国に攻め込んできたんだ。ところが、ウェールズ北部の山々に逃げ込む敵に対して、イングランド軍は勝利を得ることができなかった。(下の画像はウェールズ北部にあるスノードニア国立公園の山々をスノードン山の山頂から眺めた風景。)
結局、グウィネズ王国の王グリフィズ・アプ・カナンはイングランド王ヘンリー1世に臣従を誓うことで和平となったけれども、グリフィズ王は領地は全く失うことが無かったらしい。
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