チェスターを奪ったアングロ・サクソン人西暦43年にブリタニア(イギリス)支配を始めた古代ローマ帝国は、ロンドンから更に進み、北への進出の拠点としてはヨークを、ウェールズ北部への進出の拠点としてはチェスターに城砦と軍団を置いたんだそうな。下の画像は、チェスターのシティ・ウォールから眺めたディー川なんだけど、古代ローマ帝国はウェールズ北部のカーナフォン(当時の名前はセゴンティウム)などの拠点への補給・連絡を、チェスターからディー川とアイリッシュ海と経て船で行う構想だった。
ところが、結局は古代ローマ帝国はブリタニア統治を諦め、そこに駐屯させていた軍団をローマへ引き揚げている。そしてヨークなどの街にはケルト系ブリトン人などが住んでいたんだ。
ウェールズ北部でのグウィネズ王国の戦い勢いに乗っているアングロ・サクソン人は更に拡大を続けた。アングロ・サクソンのマーシア王国の軍は、ウェールズ北部を西へと進んで行った。対して、ウェールズ北部を本拠としていたケルト系ブリトン人のグウィネズ王国の王カドワロン・アプ・カドヴァンは、アングロ・サクソンのノーサンブリア王国との戦いに惨敗し、アイルランドに逃れていた。 そのアイルランドの支援を得て、体勢を立て直したグウィネズ王カドワロン・アプ・カドヴァンはウェールズ北部からマーシア王国の軍を駆逐することが出来たらしい。 更にグウィネズ王カドワロン・アプ・カドヴァンは、宿敵のノーサンブリア王国と戦う為に、マーシア王国のペンダ王とも同盟を結ぶことができた。
キリスト教を受け入れたノーサンブリア王国の王エドウィン他方でノーサンブリア王国の王エドウィンなんだけど、王子として生まれながらも王位を継ぐことができず、国外を転々としていた時期もあったらしい。でも、西暦616年にはノーサンブリア王を戦いで戦死させ、自らノーサンブリア王となっている。そんなエドウィンは、西暦625年にケント王国と同盟を結び、その王女と結婚することになった。但し、エドウィンのキリスト教への改宗が条件だった。ケント王国の首都カンタベリーは、聖アウグスティヌスが布教し、早くからキリスト教を受け入れた土地だったからね。
そして西暦627年、ノーサンブリア王国の王エドウィンがキリスト教の洗礼を受けた。エドウィン王はその洗礼の為にヨークに教会を建てたんだけど、その教会がやがて上の画像にあるヨーク・ミンスター(大聖堂)になったんだそうな。
ノーサンブリア王国の王エドウィンが戦死キリスト教を受け入れたノーサンブリア王国の王エドウィンに対し、ウェールズ北部のグウィネズ王国の王カドワロン・アプ・カドヴァンとアングロ・サクソン人ならがまだキリスト教を受け入れていないマーシア王国の王ペンダの連合軍が戦いを挑んだ。その結果、強勢を誇っていたノーサンブリア王国軍が敗れ、エドウィン王も戦死してしまったんだそうな。そしてウェールズに住むケルト系ブリトン人のグウィネズ王国軍はノーサンブリア王国の都だったヨークを略奪している。西暦633年のことだった。 エドウィン王が戦死した戦いで、王の息子たちも戦死し、あるいは捕われて後に処刑されている。その結果、ノーサンブリア王国は二つの王国に分割されて縁者が王となった。しかし、キリスト教は捨てられ、再び異教に戻ったんだそうな。
グウィネズ王国の王カドワロン・アプ・カドヴァンも戦死その後もウェールズのグウィネズ王国の王カドワロン・アプ・カドヴァンは戦いを続けた。彼は多くのアングロ・サクソン人を虐殺したらしい。まるでアングロ・サクソン人を滅ぼしてしまおうと見えたんだそうな。
ところが、そのグウィネズ王国の王カドワロン・アプ・カドヴァン自身も西暦634年に戦死している。古代ローマ帝国が築いたハドリアヌスの長城(城壁)(上の画像)の近くだったらしい。
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