イングランドのキリスト教の衰退イングランドには古代ローマ帝国の時代にキリスト教が入ってきていた。そして西暦250年には今のロンドン近くのセント・オバンスで聖アルバンが殉教したこともある。でも、ブリテン島北部のピクト人の攻勢に苦しみ、ヨーロッパ大陸でもゲルマン系の人々の侵攻に後退し、本拠地イタリアのローマを防衛する為に、西暦410年には古代ローマ帝国の兵士たちはブリテン島から撤退していった。ブリテン島に残されたケルト系ブリトン人たちはキリスト教の信仰を保ってはいた。でも、ヨーロッパ大陸から進出する異教徒アングロ・サクソン系の人々の前に、キリスト教の信仰は壊滅的な状況に陥ったわけだ。 但し、6世紀にはアイルランドの修道士たちがブリテン島(特に北部のスコットランド)に渡り、キリスト教の布教活動を行ったらしい。但し、アイルランド系のキリスト教は、ローマにある教皇庁のカトリックとは些か異なっていたんだそうな。(全くの余談だけど、アイルランドからスコットランドに渡ってキリスト教の布教活動をしていた聖コロンバは、西暦565年にネス湖でネッシーに遭遇したなんて話もあるが ・・・ 。) そんなわけで、ローマの教皇庁においては、イングランドに再びローマ・カトリックのキリスト教を広めることが課題になっていたらしい。
聖アウグスティヌスがカンタベリーで布教西暦596年、ローマ教皇グレゴリウス1世(ローマのサンタンジェロ城で大天使 聖ミカエルに会ったとか)は、イングランドでのローマ・カトリックの布教の為に、聖アウグスティヌスを送り込んだ。そして聖アウグスティヌスは、西暦597年にはアングロ・サクソン系のケント王エゼルベルト(キリスト教徒の王妃と結婚したばかりの新婚さんだった)から布教の許しを得た。そしてカンタベリーでローマ・カトリックの布教を始めたんだ。
その年、聖アウグスティヌスはフランス南部プロヴァンス地方の古都アルルにあるサン・トロフィーム教会において、ローマ教皇の代理によって司教とされたらしい。
聖アウグスティヌスゆかりのカンタベリー大聖堂そんな聖アウグスティヌス以後、カンタベリーの大聖堂(下の画像)はイングランドのキリスト教会の頂点としての地位を維持している。以後のカンタベリー大司教には、イングランド征服王ウィリアム1世を補佐したランフランクや、スコラ哲学の父とも呼ばれた聖アンセルムスなどの著名な人物が就任している。
でも、イングランドのキリスト教信仰を守る立場にあるカンタベリー大司教は、例えば殉教者トマス・ベケットのように、イングランド王との対立によって命をも失うこともあったんだ。
余談ながら、イングランドがカトリックと訣別して英国国教会を組織した後のこと。清教徒革命から王政復古があり、やがてイギリス王ジェームズ2世の時代。カトリックだった王は、公職や軍にカトリックを重用したんだ。それに対してカンタベリー大主教が考え直すように意見したことがある。そのあたりの軋轢が名誉革命の原因の一つだったりもしたみたい。宗教と政治ってとっても難しいもんだね。
ついでながら、西暦2013年に生まれたジョージ王子(エリザベス女王の曾孫にしてチャールズ皇太子とダイアナ妃のお孫さん)の洗礼を行ったのもカンタベリーの大主教だった。現代に至るもカンタベリー大聖堂はイギリスのキリスト教において最も重要な役割を果たしているわけだね。ついでながら、その洗礼の際にはイエス・キリストが洗礼を受けたというヨルダン川の水がロンドンまで取り寄せられたらしいよ。
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