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西暦1070年、イングランドの征服王ウィリアム1世がランフランクをカンタベリー大司教とした。
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イングランド征服王ウィリアム1世が ランフランクをカンタベリー大司教とした
カンタベリー大聖堂はイングランドのキリスト教において頂点に立つ教会みたい。というのも、ローマ・カトリックがイングランドに派遣した聖アウグスティヌスが布教活動を始めたのもカンタベリーであり、その聖アウグスティヌスが初代カンタベリー大司教になったということもある。
後のことではあるけれども、イングランド王ヘンリー8世がローマ・カトリックと決別し、イングランドのキリスト教会を英国国教会とした時に、カンタベリー大司教をそのトップに置いている。それもカンタベリー大司教の重要性を物語るものだよね。
西暦1066年のクリスマスにイングランドの征服王として戴冠したウィリアム1世は、西暦1070年にランフランクなる人物をそんな重要性のあるカンタベリー大聖堂の大司教としているんだ。(右の画像はカンタベリー大聖堂のステンド・グラスに見る大司教ランフランク。)
実はこのランフランクはイングランド征服王ウィリアム1世にとって長いつながりのある腹心だった。ウィリアム1世がまだノルマンディー公だった頃、二人は出会っていた。そしてノルマンディー公ウィリアムはランフランクをノルマンディーのルーアンの大司教にしていた。そんな腹心をイングランド支配の要の一つであるカンタベリー大司教とすることで、イングランド征服王は彼の支配の柱を一つ確立したわけだ。
イングランド征服王ウィリアム1世に対する反乱と隣国の干渉
西暦1066年にイングランド征服王ウィリアムがイングランド南部のペヴェンシーの海岸に上陸し、ヘイスティングスの戦いでイングランド王ハロルド(2世)の軍を壊滅させた。でも、その戦いに間に合わなかったアングロ・サクソン系の貴族たちは、まだ生き延びていた。特にイングランド西部・北部では、アングロ・サクソン系貴族が力を温存していたらしい。
そんなアングロ・サクソン系貴族の反乱を支援してイングランドに侵攻したのが、デンマーク王スヴェン2世やスコットランド王マルカム3世だった。西暦1068年のことだった。(上の画像は、マルカム3世にゆかりのスコットランドのエディンバラ城。余談ながら、スコットランド王マルカム3世は、シェイクスピアで有名なマクベスに殺されたダンカンの息子で、マクベスを殺して王位を得ている。)
イングランド征服王ウィリアム1世が反乱を鎮圧
しかしながら、イングランド征服王ウィリアム1世に反乱を起こしたアングロ・サクソン貴族たちは、次第に敗れ去っていった。更には、ウィリアム1世はスコットランド王マルカム3世を臣従させてもいる。そして西暦1071年にはイングランドの反乱は終息している。
反乱を起こして敗れ去った、あるいは敵対的なアングロ・サクソン系貴族の領地は没収される。そして、イングランド征服王ウィリアム1世の子飼いの臣下であるノルマン貴族たちに与えられるわけだ。例えば上の画像は、カンタベリー近くにあるチラム城からの眺めなんだけど、このチラムもアングロ・サクソン貴族から没収されてノルマン貴族に与えられたらしい。ウィリアム1世は、アングロ・サクソン系貴族の反乱をテコとして、イングランド支配をより強固なものにしたわけだね。
イングランド征服王ウィリアム1世の統治
イングランドのキリスト教会を自分のコントロールの下に置き、各地に自分の臣下を領主として送り込み、イングランド征服王ウィリアム1世は着々とイングランド統治の体制を作り上げていったわけだ。
そして西暦1085年にはドゥームズディ・ブックを作り、確実な徴税を図っている。ちなみに、その西暦1085年のドゥームズディ・ブックによれば、上の画像にあるチラムの村には、12人の自由民と38人の農奴がいたらしい。なんとなく、イングランドの征服王ウィリアム1世の大胆且つ細心の人柄が想像できるような ・・・。
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