エル・シド(シッド)が征服したスペイン東部の街ヴァレンシアキリスト教徒がレコンキスタ(国土回復運動)を進めていた中世スペインでは、少なからぬ英雄が登場したよね。その代表がスペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダ(世界遺産アルハンブラ宮殿で名高い街)を征服してレコンキスタを完了させたカトリック両王(カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世)かな。他にも、後ウマイヤ朝の古都コルドバを征服したカスティーリャ王フェルナンド3世や西ゴート王国ゆかりの古都トレドを奪還したカスティーリャ王アルフォンソ6世も中世スペインの英雄として挙げられるかな。
でも、そのカスティーリャ王アルフォンソ6世こそがカスティーリャ王国の重臣だったエル・シド(本名はロドリーゴ・ディアス・デ・ビバル)を追放した人物だった。その結果、エル・シド(あるいはエル・シッド)はやがてヴァレンシアの支配者となるわけだ。(ヴァレンシアの場所については上のスペイン略図を参照。)
イスラム教徒支配下のヴァレンシア西暦711年に北アフリカから侵入したイスラム教徒は、その3年後にはヴァレンシアを征服。北上してバルセロナを征服し、更にガリアに侵入し、カロリング朝初代フランク王小ピピン(3世)の父親のカール・マルテルに敗れたものの、今のフランス南部プロヴァンス地方のアヴィニョンやニームなどを占領した。その後、フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)の時代にバルセロナはキリスト教徒が奪還したけれども、ヴァレンシアは引き続きイスラム教徒の統治下にあった。つまり、エル・シドによって征服される前のヴァレンシアの街は、数百年に渡ってイスラム教徒の支配下にあったわけだ。 但し、イスラム教徒の支配下にあった中世のヴァレンシアは、とっても豊かな土地だった。イスラム教徒は灌漑技術をもたらして進んだ稲作を行ったのみならず、新しい野菜や果物をも栽培したんだそうな。スペイン料理を代表するパエリャの発祥の地もヴァレンシアらしいよ。(下の画像はヴァレンシアのレストランで出来上がったパエリャが運ばれてきたところ。)
ところが、ヴァレンシアを支配していたイスラム教徒たちの政治は乱れていた。10世紀末のイスラム教徒の指導者アル・マンスールはバルセロナを占領するなどの勢いを示した。ところが、間もなく後ウマイヤ朝は滅亡し、スペイン各地のイスラム教徒たちは小王国に分立したんだ。
エル・シドとヴァレンシアその頃、このページの主役であるエル・シドはといえば、カスティーリャ王国から追放され、イスラム教徒の小王国の傭兵隊長などをしていた。そんな状況でもいくつもの戦いに勝利を得たエル・シドの名声は高まり続けたんだそうな。他方、エル・シドを追放したカスティーリャ王アルフォンソ6世は、古都トレドを征服した後に北アフリカから侵攻してきたムラービト朝の軍との戦いに苦しむこととなった。そんなわけで、アルフォンソ6世はエル・シドの復帰を求めたんだそうな。ところが、結局のところ両雄並び立たず。アルフォンソ6世とエル・シドは再び対立し、袂を分かつことになってしまった。 優れた軍事指導者であると同時に名声と冨を持つエル・シドは、独自の軍勢を率いて混乱のさなかにあったヴァレンシアを包囲した。それから11ヵ月後、征服者エル・シドが降伏したヴァレンシアに入城した。西暦1094年6月のことだった。 ヴァレンシアの新しい支配者となったエル・シドは、街の中心にあったモスクをキリスト教徒の為のサンタ・マリア教会としている。その建物は、かつての西ゴート王国時代の教会だったそうな。(下の画像は、その同じ場所にある今のヴァレンシア大聖堂の正面ファサード。)
そんな中世スペインの英雄エル・シドが亡くなったのは西暦1099年のこと。彼の死後のヴァレンシアを守るべく戦ったのが未亡人ヒメーナだった。しかし、ヴァレンシアに押し寄せてきたのは、北アフリカのイスラム教徒を主体とするムラービト朝の軍だった。
その後のヴァレンシアエル・シドの死後に再びイスラム教徒の支配下に落ちたヴァレンシア。エル・シドゆかりのサンタ・マリア教会は再びイスラム教徒の為のモスクとされた。そのモスクをキリスト教徒の聖堂としたのは、西暦1238年にヴァレンシアを征服したアラゴン・カタルーニャ連合王国の王ハイメ1世だった。以後のヴァレンシアはアラゴン・カタルーニャ連合王国の重要な港湾都市として発展を続けていく。その名残りが今もヴァレンシアに残る世界遺産ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(絹の商品取引所)かな。
ついでながら、ヴァレンシアを訪れる観光客に人気なのが、上の画像にあるヴァレンシアの火祭りの炎だね。この祭りはスペイン三大祭りの一つとされているんだそうな。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |