ヨーロッパの歴史風景 先史・古代編




西暦410年、古代ローマ帝国がブリタニア(ブリテン島、イギリス)から軍団を撤退させた。


古代ローマ帝国によるブリタニア(イギリス)統治

今のイギリスの首都ロンドンは、西暦43年にブリタニア(ブリテン島、イギリス)に軍団を送り込んで本格的な統治を始めた古代ローマ帝国が築いたものだね。もちろん、それまでにもケルト人は住んでいたけれども、本格的な発展を始めるのは古代ローマ帝国の時代だった。

その当時のロンドンは南側にはテムズ川、西から北と東はロンドン・ウォールに囲まれており、ほぼ今の金融街シティに相当する範囲なんだそうな。後にイングランド征服王ウィリアム1世ロンドン塔を築いたあたりにも、古代ローマ帝国時代の城砦があったらしい。

イギリスの首都ロンドンを流れるテムズ川と橋

そんなロンドンでは物資の流通が盛んになり、商業が活発になったらしい。ヨーロッパ大陸から海を越えテムズ川を遡ってロンドンまで船で来ることができ、しかもロンドンにはテムズ川を渡る橋もあった。更にロンドンを通る街道はあちこちにつながっていたんだ。(上の画像はテムズ川とロンドンにあるセント・ポール大聖堂。)

イギリスで生産された農作物は、ロンドンから船に積まれてヨーロッパに送られ、古代ローマ帝国の軍団の食料とされたり、売却されたり、あるいはローマに送られたりもしたんだそうな。

古代ローマ帝国が築いたヨークやチェスター

そんなロンドンからはブリタニア(ブリテン島、イギリス)各地に通じる街道が設けられ、各地の要衝には城砦都市が築かれた。

例えば、ブリタニア北部(今のスコットランド)に住むピクト人に対しては、ヨーク(当時の名前はエボラクム)が築かれ、ウェールズ北部にはカーナフォン(当時の名前はセゴンティウム)、そのウェールズの東にはチェスター(当時の名前はディーヴァ)というわけだ。

イギリスのチェスターのイーストゲート・ストリートは古代ローマ帝国時代のプリンシパリス街道

ちなみに、上の画像はチェスターにあるイーストゲート(東門)から眺めたイーストゲート・ストリートなんだけど、この道が古代ローマ時代にはプリンシパリス街道だった。その街道と交差する古代ローマ時代の街道も今もチェスターの主要道路だったりするんだ。古代ローマ帝国による街の構造は今も生き残っているんだね。

アングロ・サクソン人やピクト人による襲撃

でも、古代ローマ帝国の統治するブリタニア(ブリテン島、イギリス)の繁栄の陰には、脅威が忍び寄りつつあった。例えば、ヨーロッパ大陸からは船に乗ったアングロ・サクソン人が襲撃してきたりしたんだ。

イギリスの南海岸にあるペヴェンシーの古城跡

上の画像はイングランド南部にあるペヴェンシーの海岸近くの古城跡なんだけど、古代ローマ帝国はここに城砦を築いてアングロ・サクソン人の襲撃に対して守りを固めたらしい。更には、このペヴェンシーやドーバーの港を拠点としてブリタニア南部に海軍を置き、ブリタニアを襲撃する船に警戒したんだそうな。

でも、警戒すべきはヨーロッパ大陸からの脅威だけじゃなかったよね。ブリタニア(ブリテン島、イギリス)北部のピクト人に対しても、守りを固めるためにハドリアヌスの長城(城壁)を築いたりしたわけだ。それでもピクト人は長城を越えて侵攻し、ロンドンまでも略奪したことがあったんだけど。

更には隣のアイルランドに住んでいたゲール人もしばしブリタニア西岸に襲来していた。後にアイルランドでキリスト教の布教を行ったとされる聖パトリックも、少年時代にアイルランドの海賊に拉致されて奴隷とされていたらしい。(聖パトリックはアイルランドの首都ダブリンにある聖パトリック大聖堂に名を残している。)

ブリタニアから大陸へ渡った皇帝や兵士たち

更には、古代ローマ帝国内部の問題もあった。ヨークにある大聖堂(ヨーク・ミンスター)の地下には古代ローマ帝国時代の大広間があるんだけど、その大広間では軍団の兵士たちが彼らの指揮官を皇帝に推戴することがあったんだ。

推戴された皇帝は戦いに慣れた兵士たちの軍団を率いてヨーロッパ大陸に戻り、政敵と戦って正式の古代ローマ帝国皇帝となろうとするわけだ。例えばコンスタンディヌス帝がそうだったんだけどね。でも、ベテランの兵士たちを連れて行かれたブリタニアでは、脅威に対抗する戦力は大きく低下してしまったんだ。

更に、ヨーロッパ大陸でのゲルマン民族の動きも活発化していた。古代ローマ帝国の防衛は危機に陥り、ブリタニアに兵士たちを送るどころか、むしろブリタニア駐屯軍や物資を大陸へ移動させることが増えたわけだ。

古代ローマ帝国のブリタニア(ブリテン島、イギリス)からの撤退

まずはウェールズに対してもスコットランドに対しても睨みを利かせていたチェスターからの撤退が行われた。西暦383年のことだったらしい。

そして西暦410年には西ローマ帝国の皇帝ホノリウスによってブリタニア(ブリテン島、イギリス)の放棄が決定された。以後、ブリタニアに残るローマ人やローマ化したケルト系ブリトン人は、自衛していくこととなる。

しかし、例えば上に画像のあるペヴェンシーの古城には、古代ローマ帝国の兵士たちが去った後にはケルト系ブリトン人たちが入ったらしい。でも、彼らは西暦491年にアングロ・サクソン人によって虐殺されたらしい。

もちろん、ケルト系ブリトン人たちもアングロ・サクソン人たちと戦っている。そこにアーサー王伝説が生まれるわけだ。更にウェールズではケルト系ブリトン人たちの小さな王国がいくつも生まれ、その一つであるグウィネズ王国は時にアングロ・サクソン人と戦い、後のイングランド王エドワード1世に敗れるまで生き残っていたんだ。

フランスでも ・・・

ブリタニア(イギリス)から撤退した古代ローマ帝国の兵士たちの姿は、ガリア(フランス)北部でも見えなくなっていた。例えば、フランス北部の世界遺産 モン・サン・ミシェルのあたりでは、西暦460年には古代ローマ帝国の兵士たちはいなくなっていたらしい。

その後、モン・サン・ミシェルの島は古代ケルト系ブルトン人の城砦となった。でも、やがてアングロ・サクソン系のフランク人に襲われ、ブルトン人たちは壊滅したんだそうな。

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