ロンドンに見る古代ローマ帝国時代の遺跡イギリスの首都ロンドンのビジネス街シティあたりを歩けば、下の画像のような掲示板を見ることがある。
上の画像の中の掲示板は、「崩壊危険」と書いてあるのでもないし、「球根に注意」と書いてあるわけでもない。上の画像に写っている古代ローマ帝国時代に築かれたロンドン・ウォールのことを説明しているんだ。
ロンドン・ウォールの遺跡このロンドン・ウォールというのは、古代ローマ帝国時代から中世にかけて築かれたシティ・オブ・ロンドンを取り囲むシティ・ウォール(市壁)のこと。下の画像ならば市壁だとわかりやすいよね。
上の画像のように見るからに市壁という顔をしているのは中世に築かれた市壁の場合が多いんだ。ロンドンの他にもイングランド南部にあるカンタベリーの市壁もあるし、イングランド北部の要衝ヨークにも市壁がある。ちなみに、上の画像のようなロンドンの中世の市壁でも、その基礎・土台の部分は古代ローマ時代のものだったりするんだそうな。
ロンドン(ロンディニウム)古代ローマ帝国の人々がブリタニア(ブリテン島、イギリス)に来たといえば、まず頭に浮かぶのは紀元前55年にイングランド南部のディールの海岸に上陸したカエサル(シーザー)のブリタニア遠征かな。でも、その遠征は一時的なもので、古代ローマ帝国がブリタニアを支配しようとしたものじゃなかったらしい。でも、西暦43年の古代ローマ帝国の兵士たちのブリタニア(ブリテン島、イギリス)への上陸は、その支配を目指したものだったんだ。皇帝クラウディウスの命によるものだった。そして彼らはロンドン(ロンディニウム)を造り上げた。(ちなみに、皇帝クラウディスが生まれたのは今のフランス第2の都会リヨン(当時はルグドゥヌム)だった。古代ローマ帝国はリヨンには紀元前43年に進出していた。ついでながら、大英博物館の古代ローマ関連の展示の中には、皇帝クラウディウスの彫像もあるよ。) 当時のロンドン(ほぼ今のビジネス街シティに近い規模らしい)の南側にはテムズ川が流れていた。その南側を除き、街の西、北、東をぐるりと囲むように上の画像にあるロンドン・ウォールが築かれたんだそうな。そのロンドン・ウォールの東の端っこのテムズ川のほとりにあるのが、今のロンドン塔だね。 それからかなり後のことになるけど、西暦410年には古代ローマ帝国はブリタニア(ブリテン島、イギリス)を放棄して撤退する。もちろん、その後もロンドンは発展するわけだ。ちなみに、ロンドンのセント・ポール大聖堂を最初に西暦604年に建立したのは、アングロ・サクソン人だったそうな。そしてアングロ・サクソン人の英雄であるアルフレッド大王は、このロンドンをウェセックス王国の首都にしたらしい。
古代ローマ帝国がブリタニアを北へ向かった古代ローマ帝国がブリタニアを撤退する話は先のことなんだけど、西暦43年にロンドンを造った後も、古代ローマ帝国の拡大は続く。彼らは北へと向かい、西暦71年には今のイングランド北部の街ヨーク(当時の名前はエボラクム)に要塞都市を築いたんだ。
上の画像は、今のヨーク・ミンスター(大聖堂)とその前に立つ古代ローマ帝国時代の石柱なんだ。この石柱は古代ローマ帝国時代の大広間に有ったらしいんだけど、その大広間では軍団がコンスタンティヌスを古代ローマ帝国の皇帝に推戴したんだそうな。
古代ローマ帝国はウェールズにも他方で古代ローマ帝国はブリタニアの西部にあるウェールズにも向かった。西暦78年には、古代ローマ帝国のブリタニア総督アグリコラがウェールズのケルト人を打ち破っている。
その総督アグリコラは、ウェールズの統治の為に、要塞都市チェスターから海路で連絡の取れる場所にセゴンティウムという城塞都市を造っている。それが今のカーナフォンの街になっているんだ。
古代ローマ帝国時代のロンドンの街並み西暦2016年1月に目にしたニュースによれば、ロンドンのコードウェイナー地区のビルの建設工事現場の地下から、西暦60年代頃の街が発掘されたらしい。住宅や店舗などが発掘され、陶器や革製品、コインや鋳物などの生活用品が大量に発掘され、その数は1万数千点にも及ぶんだそうな。しかも、水分の多い土に埋もれていた結果として、保存状態が非常に良いとのこと。これらの発掘の成果から、古代ローマ帝国時代のロンドン(ロンディニウム)での生活の様子がもっと詳しく見えてくると良いね。
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