古代ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスとミルヴィオ橋の戦い西暦312年、ガリア(今のフランス)から軍団を率いてアルプスを越えたコンスタンティヌスは、イタリア北部を制圧し、首都ローマへと向かった。そのローマを支配していたのは、ライバルのマクセンティウスだった。間もなく両雄はローマ近くにあるミルヴィオ橋で激突。勝利を得たコンスタンティヌスが古代ローマ帝国の西の正帝としての地位を確立したわけだ。
上の画像はローマのヴァティカン美術館・博物館のコンスタンティヌスの間にあるフレスコ画「ミルヴィオ橋の戦い」なんだ。この戦いに勝った翌年の西暦313年に皇帝コンスタンティヌスはミラノ勅令を出し、キリスト教の信仰を容認している。皇帝ネロの頃から続いていたキリスト教徒迫害を終わらせたんだね。そんなこともあって、ヴァティカンではコンスタンティヌスの間に彼の足跡をテーマにしたフレスコ画が描かれたわけだ。
西の副帝となったコンスタンティヌス後の皇帝コンスタンティヌスの父コンスタンティウス・クロルスは西暦305年に西の正帝となっている。その翌年、イギリス北部スコットランドのピクト人に対する遠征を行っていたコンスタンティウス・クロルスはエボラクムの街(今のイギリス北部の街ヨーク)で病没。軍団は彼の息子のコンスタンティヌスを皇帝に推戴したそうな。
上の画像はそのヨークの街にあるヨーク・ミンスター(大聖堂)なんだけど、その前に立っているのは古代ローマ帝国時代の石柱なんだそうな。ヨーク・ミンスターの下には当時の大広間が埋まっていて、この石柱はその大広間のものだった。その大広間こそ軍団がコンスタンティヌスを皇帝に推挙した場所なんだそうな。
古代ローマ帝国の唯一の皇帝となったコンスタンティヌス当時の古代ローマ帝国においては、西の副帝となったコンスタンティヌスの他に西の正帝、東の正帝・副帝がいた。つまり、コンスタンティヌスは 4人の皇帝の一人となったに過ぎなかった。でも、コンスタンティヌスには西の正帝だった父の支配領域を継承することが認められたんだ。つまり、イギリス・ドイツからフランス・スペインにかけての領域がコンスタンティヌスの支配下にあった。そこを拠点に彼は勢力を蓄えていった。 そして西暦312年にはイタリアに入ってマクセンティウスを倒し、晴れて西の正帝となった。その勝利を記念して建てられたのが、下の画像にあるコンスタンティヌスの凱旋門なんだ。ローマのフォロ・ロマーノの一画、コロッセオ(円形闘技場)のすぐ横で見ることが出来るよ。
その後、西暦324年には残る皇帝リキニウスとの戦いに勝ち、リキニウスは翌年には処刑された。ここにコンスタンティヌスは古代ローマ帝国を統治する唯一の皇帝となったわけだ。
コンスタンティヌスに敗れたマクセンティウスの置き土産他方で、ミルヴィオ橋の戦いに敗れて亡くなったマクセンティウスは、ローマのフォロ・ロマーノの丘の上にあったウェヌスとローマ神殿(下の画像)の修復を行っていた。でも、結局のところ神殿の修復を完成させたのは皇帝コンスタンティヌスだった。
またマクセンティウスは、若くして亡くなった息子の為にフォロ・ロマーノの一画にロムルスの神殿と呼ばれる廟を建立していた。でも、それも未完成のままで終わってしまったらしい。今も残るその神殿はマクセンティウスの敗死を伝えているわけだ。そんなことを父マクセンティウスも息子ロムルスも期待していなかっただろうけどね。
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