古代ローマ帝国のカラカラ帝、皇帝の中でも代表的な暴君古代ローマ帝国の皇帝の中で暴君としてまず名前があがるのは、多くのキリスト教徒を殺害した皇帝ネロかな。その次に暴君として挙げられる古代ローマ帝国の皇帝は、カラカラ帝かもしれない。
上の画像は、イギリスの首都ロンドンにある大英博物館の中の古代ローマ関連の展示で見るカラカラ帝の胸像なんだけど、古代ローマ帝国のそれまでの皇帝の哲学者風の像ではなく、短い髪の軍人らしい姿で像を残した皇帝はカラカラ帝が最初なんだそうな。
属州ガリアで生まれたカラカラ帝カラカラ帝の父親は皇帝セプティミウス・セウェルスなんだけど、彼が皇帝になる前にその長男として生まれたのが後に古代ローマ帝国皇帝となったカラカラ帝だった。そのカラカラ帝は、西暦188年にガリア(フランス)のルグドゥヌム(リヨン)の街で生まれている。(下の画像はリヨンのフルヴィエールの丘に残る古代ローマ帝国時代の劇場。)
古代ローマ帝国は紀元前122年にフランス南部プロヴァンス地方にエクサン・プロヴァンス(エクス)の街を築き、更に紀元前43年に内陸部に築いたのがルグドゥヌム(リヨン)の街だった。そのルグドゥヌムを中心に属州ガリア・ルグドゥネンシスを経営したらしい。
ブリタニア遠征とカラカラ帝ガリアの街ルグドゥヌムで生まれた先輩皇帝クラウディウスが進出したブリタニア(イギリス)北部(今のスコットランド)には、古代ローマ帝国の支配に敵対的なピクト人がいた。カラカラ帝は父親の皇帝セプティミウス・セウェルスと共にハドリアヌスの長城(城壁)の北まで遠征したらしい。その遠征が終わり、ブリタニア北部にある古代ローマ帝国の城砦都市エボラクム(今のイギリス北部の街ヨーク)で父皇帝セプティミウス・セウェルスが亡くなったのは、西暦211年のことだった。(下の画像はヨークの古い街並みを残すシャンブルズ通り。)
父の死後、カラカラ帝は弟のゲタと共に共治帝として古代ローマ帝国を支配することになった。ところが、イタリアのローマに戻った後のカラカラ帝とゲタ帝は鋭く対立し、やがてカラカラ帝は弟を殺害してしまったらしい。そんな弟殺しに対する批判が表面化したエジプトのアレクサンドリアでは、カラカラ帝は街を破壊し数万人を殺害したという話もある。
カラカラ帝がローマに残したカラカラ浴場そんなカラカラ帝が人気取りの為に始めたのが、今もローマに残るカラカラ浴場の建設だった。その着工は西暦212年、完成は4年後の西暦216年のことだった。
カラカラ浴場が完成した翌年の西暦217年、東方への遠征途上のカラカラ帝が近衛兵によって殺害された。個人的な恨みによる殺害だったらしい。マキャベリの「君主論」によれば、彼は情け容赦なく殺した男の兄弟を守備隊長としていており、その守備隊長によって殺害されたとか。あまりにも無鉄砲な措置だったとしている。
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