古代ローマ帝国の皇帝カリグラが暗殺された西暦41年、古代ローマ帝国の第3代皇帝カリグラ(あるいはカリギュラ)が暗殺された。皇帝となって4年にもならず、まだ28歳という若さだった。でも、狂気の独裁者として後世に伝えられている。そんな皇帝を暗殺したのは、皇帝を守るべき親衛隊の将校たちだった。しかも、殺害現場はローマの中心ともいうべきフォロ・ロマーノにあるパラティーノの丘だった。
上の画像がフォロ・ロマーノのパラティーノの丘なんだけど、古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスや第2代皇帝ティベリウスのみならず、はるか昔のエトルリア人の王たちもこの丘の王宮に住んでいた。古代ローマの由緒ある場所だったんだね。
初代皇帝アウグストゥスの血をひくカリグラの即位古代ローマ帝国の第2代皇帝ティベリウスは、初代皇帝アウグストゥスの再婚相手の連れ子であり、二人の間に直接の血縁関係は無かった。その治世において派手な軍事的遠征や建設事業を行うことはなく、イベントなども減らし、経費節減に努めたらしい。しかも、晩年にはローマを離れてナポリの南に浮かぶカプリ島に隠棲していた。というわけで、きまじめで陰気な人気の無い皇帝だったみたい。そんなティベリウスにとって、カリグラ(カリギュラ)は弟の孫にあたる子供だった。故に父を亡くしたカリグラをカプリ島に引き取り、数年間を共に過ごし、古代ローマ帝国の役職をも与えたわけだ。 そして西暦37年、第2代皇帝ティベリウスが亡くなり、24歳の若者カリグラが古代ローマ帝国の第3代皇帝となった。高齢で陰気で不人気の先代に対し、若さあふれる皇帝カリグラ。亡くなった父親は軍事的にも活躍し、兵士たちからも慕われていたこともあり、そんな元兵士たちも新しい皇帝カリグラを支持したらしい。
加えて、カリグラの父はアウグストゥスの姉の孫にして、母はアウグストゥス自身の孫にあたり、即ち初代皇帝アウグストゥスの血をひくカリグラこそは正統の皇帝たり得ると古代ローマ帝国の人々は受けとめたらしい。(上の画像はローマのフォロ・ロマーノに残るアウグストゥスのフォロ。)
皇帝カリグラ(カリギュラ)の建設事業と財政悪化人々の歓喜に迎えられた新しい皇帝カリグラ(カリギュラ)は、自分を支持してくれる兵士たちに臨時のボーナスを支給したている。更には先代皇帝が減らしていた剣闘士大会などのイベントも開催したらしい。その結果として当然ながら新しい皇帝の人気は高まる。更には皇帝カリグラはあちこちで大建設事業を始めたらしい。例えば、やがてヴェスヴィオ火山の噴火で埋もれるポンペイに劇場を作った。(ついでながら、ポンペイ遺跡からの発掘品はナポリ国立考古学博物館にいろいろと展示されている。アレクサンダー大王のモザイク画もね。)
ローマに築いた競技場の真ん中には、エジプトから運んだオベリスクを立てている。余談ながら、そのオベリスクはローマ教皇シクストゥス5世の命によって西暦1586年にローマのサン・ピエトロ大聖堂の前にあるサン・ピエトロ広場に移されたんだ。上の画像がその様子なんだけどね。
その他にも皇帝カリグラは古代ローマ帝国のあちこちで様々な建設事業を行ったんだ。その結果、当然のことながら古代ローマ帝国の財政は急激に悪化した。資金不足を補う為に無実の人々を裁判にかけ、あるいは裁判を経ずに処刑あるいは殺害して、その財産を没収するようなこともカリグラは行ったとか。
自分自身を神格化しようとした皇帝カリグラ次第に狂気の独裁者となりつつあった皇帝カリグラ(カリギュラ)は、やがて自分自身を神格化し始めた。ローマにある双子神の神殿(カストルとポルックスの神殿)を舞台に、人々を前に神を演じるようになったらしい。(下の画像がその神殿の遺構なんだけど、古代ローマがエトルリア人の王を追放して共和政に移行した頃に遡る由緒ある神殿だったとか。)
親衛隊の将校たちが皇帝カリグラを暗殺したのは、そんな状況下でのことだった。その後、親衛隊の支持を得たクラウディウス(カリグラの叔父にあたる)が古代ローマ帝国の第4代皇帝となっている。カリグラが計画したブリタニア侵攻を実行し、ロンディニウム(今のイギリスの首都ロンドン)を築いたのは、第4代皇帝クラウディウスだった。
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