エトルリア人の王を追放したローマに建立された双子神の神殿イタリアの首都ローマのフォロ・ロマーノと言えば、カピトリーノの丘を中心とした古代ローマゆかりの遺跡が色々と残っている場所だよね。その一画にある双子神の神殿(カストルとポルックスの神殿)の遺跡の様子が下の画像なんだ。
この双子神の神殿なんだけど、実は古代ローマの共和政の始まりに関係がある。紀元前509年にローマはエトルリア人の王タルクィニウス・スペルブスを追放したんだけど、追放された王も黙って引き下がってはいなかった。エトルリア人の都市の軍を率いて、ローマと戦いを始めたわけだ。
余談ながら、古代ローマ帝国の第3代皇帝カリグラは、狂気の独裁者となり、自らを神格化して、この双子神の神殿で神を演じたらしい。間もなく彼は暗殺されたんだけどね。
古代ローマとエトルリア人の王元々はサビニ人とラテン人とが古代ローマの王となっていた。その伝統を覆したのが、紀元前616年にエトルリア人でありながらローマの王となったタルクィニウス・プリスクスだった。(但し、彼の父親はギリシャのコリント出身だったという話もある。)彼は湿地に囲まれていたフォロ・ロマーノ周辺の土地の灌漑を行い、やがて古代ローマが発展する土台を築いたとも言われている。(下の画像の奥に見える丘は、古代ローマの王たちの王宮があったとされるパラティーノの丘の風景。)
ところが、紀元前579年に彼は殺害されてしまう。犯人は先代の王の息子だった。ローマの王として即位したのは、殺害されたタルクィニウス・プリスクスの娘と結婚していたエトルリア人のセルウィウス・トゥリウスだった。
古代ローマから追放されたエトルリア人の王ところが、紀元前535年にはそのセルウィウス・トゥリウスも暗殺されてしまった。古代ローマの次の王となったのは、娘婿のタルクィニウス・スペルブスだった。ちなみに、セルウィウス・トゥリウスを暗殺したのは、彼の娘と婿のタルクィニウス・スペルブスだったという説もある。ローマ王タルクィニウス・スペルブスは周囲の都市と戦いを続け、他方で国内では暴君とされている。その挙句、古代ローマの人々が立ち上がり、紀元前509年に彼を追放し、共和政に移行したというわけだ。 追放されたタルクィニウス・スペルブスは王として復帰すべく周囲のエトルリアの都市と同盟してローマを攻めている。でも、結局は既に書いたようにレギルスの戦いで敗れ、間もなく亡くなったらしい。こうして古代ローマの共和政が確立されたわけだ。(但し、後にカエサルが独裁的な権力を確立し、アウグストゥスが初代皇帝となったけど。)
上の画像は最後のエトルリア人の王タルクィニウス・スペルブスがローマに残したサトゥルヌスの神殿跡の様子なんだ。但し、このサトゥルヌスの神殿の遺構なんだけど、紀元前387年にローマを略奪したケルト人によって破壊され、更に紀元前283年には火災によって焼失し、その後に再建されたもの。ローマから追放された王タルクィニウス・スペルブスが建立した神殿の遺構ではないみたいだけどね。
タルクィニウス・スペルブスについてところで、ローマから追放された王タルクィニウス・スペルブスなんだけど、エトルリア人にして初めて古代ローマの王となったタルクィニウス・プリスクスの息子とする資料もある。でも、ちょいと納得しがたい点もあるんだ。息子スペルブスは紀元前496年に亡くなっているんだけど、父プリスクスは紀元前578年に殺害されている。その父の殺害された年に息子がゼロ歳だったとすれば、父の王位を娘婿のセルウィウス・トゥリウスが継承したことも合点がいくかな。その場合、息子スペルブスは82歳で亡くなったことになる。でも、紀元前5世紀に82歳まで長生きすることって極めて稀だろうね。あり得るんだろうか。 他方で、紀元前616年に王となった時点で父が30歳だったとすると、殺害された時点では68歳になる。その年齢でゼロ歳の息子を持つことってあり得たんだろうか。仮に58歳の時(つまり紀元前588年)に息子が生まれていたと仮定すれば、その息子が亡くなった時には92歳ということになる。ますます可能性は低くなるよね。 父が紀元前616年に王となった時点で20歳だったとする。でも、元々はエトルリア系のタルクィニアの街に生まれ、ローマに移住し、当時の王の信頼を得て、王子たちの後見をも託された後に王となった人物が20歳とは考え難いよね。 いずれにせよ、古代ローマの王たちは伝説の中の存在なんだけど、故にあれこれと考えて楽しむことも出来るわけだ。
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