古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスイギリスの首都ロンドンの大英博物館の中の古代ローマ関連の展示の中で見た下の画像の人物、それが紀元前27年に古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスとなったオクタヴィアヌスだった。
古代ローマの英雄カエサル(シーザー)の姪の息子として生まれ、そのカエサルの養子となり、カエサルから後継者として指名されていたオクタヴィアヌス(以下では「アウグストゥス」とする)。でも、紀元前44年のカエサル暗殺から紀元前27年に皇帝となるまでは、色々と苦労をしたみたい。必ずしもエスカレーターに乗って皇帝となったわけじゃなかったんだ。
余談ながら、古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの風貌をうかがわせるものは、上の画像の彫像以外にもある。例えば、イタリア南部サレルノ近くにある世界遺産パエストゥム(ポセイドニア)の脇にあるパエストゥム国立考古学博物館には、アウグストゥスのコインがある。そのコインには彼の横顔が描かれているんだ。
カエサル暗殺と第2回三頭政治を勝ち抜いたアウグストゥス紀元前44年にカエサルがイタリアのローマで暗殺された時、アウグストゥスはギリシャにいた。そこで連絡を受けたアウグストゥスは、急いでローマに戻ったんだそうな。イタリアではカエサルの軍団の兵士たちや側近たちがアウグストゥスを歓迎したらしい。(下の画像はローマに残るフォロ・ロマーノにあるカエサルのフォロの様子。)
でも、実力者アントニウスたちとアウグストゥスとは必ずしも良い関係にあったわけじゃなかった。他方で、元老院との関係も簡単ではなかった。そんなわけで、紀元前43年には、アウグストゥス、アントニウス、レピドゥスによる第2回三頭政治がボローニャで成立した。この三者はカエサルを暗殺した人々を追及するという名目によって元老院を抑え込むという点で利害が一致したみたい。
古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスと属州ガリア古代ローマ帝国の皇帝となったアウグストゥスは必ずしも軍事的に才能があったとは言われていない。むしろ、娘をも嫁がせた親密な側近であるアグリッパに軍事については任せていたらしい。その側近のアグリッパは、属州ガリア(今のフランス)の経営においてルグドゥヌム(今のフランス第2の都市リヨン)が南北を結ぶ道路網の中心となると主張したらしい。
アグリッパを信頼していた皇帝アウグストゥスは、そのルグドゥヌムの街の整備を進めたんだそうな。(上の画像は今のリヨンの街に残る古代ローマ帝国時代の劇場跡。)
他方で皇帝アウグストゥスとアグリッパのコンビは、今のフランス南部プロヴァンス地方やラングドック地方の開発も行っている。古代ローマ帝国時代の円形闘技場も残るニームの街に水を供給する水道橋ポン・デュ・ガールを築いたのもアグリッパだったとされている。そのニームの街には皇帝アウグストゥスの娘とアグリッパとの間に生まれた子供たち二人を祀った神殿と言われるメゾン・カレも残っている。
そのニームの街にも近いサン・レミ・ド・プロヴァンスにはグラヌムの遺跡もある。このグラヌムの遺跡は古代ケルト人の街から発展した古代ローマ帝国時代の街の遺跡なんだそうな。ちなみに、「ノストラダムスの大予言」を出版した予言者ノストラダムスは、このサン・レミ・ド・プロヴァンスの生まれだった。ついでながら、アルルの街で耳を切り落とす事件を起こした画家ゴッホが入院した精神病院もこの街にある。
更に進んで今のスペイン北東部カタルーニャ地方の州都バルセロナの旧市街ゴシック地区の開発が進められたのも、この皇帝アウグストゥスの時代だったらしい。バルセロナの大聖堂の壁には、古代ローマ帝国時代の市壁の遺構が取り込まれている。また、バルセロナにはセゴビアの水道橋のような施設もあったんだそうな。バルセロナの南にあるヴァレンシアは紀元前75年に内戦によって破壊されていたんだけど、その街も皇帝アウグストゥスの時代に再建されたらしい。
古代ローマ帝国の海軍と皇帝アウグストゥス下の画像はイタリアの古都ラヴェンナにあるサンタ・ポリナーレ・イン・クラッセ教会で撮影したものなんだけど、左の方に見えている像は皇帝アウグストゥスなんだ。
かつてはこの土地のすぐ近くまで海が迫っていた。ここに軍港を整備し、古代ローマ帝国海軍のアドリア海艦隊を増強したのが、皇帝アウグストゥスだった。もちろん、今ではそんな軍港を見ることも出来ないけどね。(イタリア半島の西側においては、彼はピサの港を整備したらしい。)
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