古代ローマ帝国の第2代皇帝となったティベリウスかつてヨーロッパと地中海世界を支配した古代ローマ帝国の初代皇帝と言えば、あのカエサル(シーザー)の養子となったアウグストゥス(オクタヴィアヌス)だよね。でも、晩年の初代皇帝アウグストゥスは後継者問題で悩んでいたんだ。軍事や建設に才能を発揮した副官アグリッパ(フランス南部プロヴァンス地方に水道橋ポン・デュ・ガールを築いたとも言われる)を自分の娘ユリアと結婚させて後継者にしようとしたものの自分よりも早くに亡くなってしまった。 そのアグリッパと娘ユリアとの間に生まれたガイウスとルキウスという孫たちも、アウグストゥスよりも早くに亡くなってしまった。というわけで、結局のところはアウグストゥスの再婚相手のリウィアの連れ子だったティベリウスを養子とし、夫に先立たれた娘ユリアと再婚させ、後継者とするしかなかったわけだ。
そして西暦14年、アウグストゥスが亡くなり、古代ローマ帝国の第2代皇帝となったのがティベリウスだった。上の画像はローマのフォロ・ロマーノにあるパラティーノの丘なんだけど、そこにはティベリウスの宮廷の遺構が今も残っているんだそうな。
ティベリウスの軍事的な活躍とロードス島への隠遁既に書いたけれども、ティベリウスの母リウィアの再婚の相手が初代皇帝アウグストゥスだった。そのおかげでティベリウスは若い頃から政治や軍事において活躍の場を与えられていた。紀元前15年には古代ローマ帝国は今のドイツのバイエルン南部を征服しているけれども、その指揮官がティベリウスだった。紀元前12年にはアウグストゥスの副官にして後継者候補だったアグリッパが亡くなっている。アウグストゥスはティベリウスを離婚させ、夫アグリッパに先立たれた自分の娘ユリアと再婚させている。ユリアとの結婚生活は幸福なものではなかったみたいだけど、ティベリウスはアウグストゥスの後継者候補として有力な存在となったわけだ。 でも、皇帝アウグストゥスはアグリッパとユリアとの間に生まれた孫のガイウスとルキウスの成長に期待をかけていた。つまり、ティベリウスが後継者候補とはいえ、中継ぎにすぎないとも思われたんだ。
そんな状況下、はっきりとした理由はわからないんだけど、ティベリウスが紀元前6年に突如として表舞台から身を引き、エーゲ海に浮かぶロードス島に隠遁してしまった。(上の画像はロードス島の街リンドスのアクロポリスに残る古代遺跡。ついでながら、マルタ島の前の聖ヨハネ騎士団の本拠がロードス島だった。)
カプリ島に隠棲した皇帝ティベリウス古代ローマ帝国の皇帝として特筆すべきことをしなかったということが、ティベリウスについて特筆すべきことかもしれない。皇帝となったかれは華々しい軍事的遠征を行ったわけでもなく、大規模な建設事業を行ったわけでもない。むしろ帝国財政の悪化を防ぐために支出を切り詰め、剣闘士大会などのイベントなども大幅に減らしたらしい。そんなわけで、大衆の人気は低かったんだそうな。
しかも、西暦27年にはナポリの南に浮かぶカプリ島(上の画像は名高いカプリ島の青の洞窟の様子)に隠棲してしまった。そのカプリ島からローマの元老院に書面を送って統治に関する指示を下したらしい。その結果、大衆からの不人気のみならず、元老院からの反発までも招いたんだ。
皇帝ティベリウスとイエス・キリストの処刑皇帝ティベリウスがカプリ島に隠棲して数年後(おそらくは西暦30年)に古代ローマ帝国支配下のユダヤの地でイエス・キリストが十字架にかけられた。(下の画像はベルギーのアントワープにあるノートルダム大聖堂で見ることの出来る画家ルーベンスの絵「キリスト降架」。)
但し、その処刑を皇帝ティベリウスが知っていたかどうかは定かではない。ただ確かなのはイエス・キリストの処刑を記録するその時代の文書がないことなんだそうな。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |