ヨーロッパの歴史風景 先史・古代編




西暦78年、古代ローマ帝国のブリタニア総督アグリコラがウェールズでケルト人を打ち破った。(イギリス)


ウェールズにおける古代ローマ帝国の騎兵部隊の壊滅

ご承知の通り、イギリスは山の少ない国だね。グレート・ブリテン島の最高峰といえば、スコットランドにあるベン・ネビス山だけど、それでも海抜は1,344メートルというからさほど高い山じゃないね。そんなイギリスの中でも、山が多いのが、下の画像にあるウェールズ北部だね。(下の画像はスノードニア国立公園の山々。)

ウェールズ北部のスノードニア国立公園の山々(イギリス)

この山の多いウェールズ北部で、西暦77年の夏に古代ローマ帝国の騎兵部隊が殲滅されたらしい。待ち伏せされて壊滅したんだそうな。

古代ローマ帝国のブリタニア総督アグリコラと
都市セゴンティウム(後のカナーフォン)建設

そして西暦78年、古代ローマ帝国のブリタニア(ブリテン島、イギリス)総督に任命されたのが、アグリコラだった。彼はブリタニアでの軍隊勤務の経験もあり、司令官を務めたこともあるベテランであり、ガリア(今のフランス)でも総督として任務を果たした上で、ローマに戻っていた。ブリタニアに着任した総督アグリコラは、直ちにウェールズ北部に遠征し、土着のケルト人を打ち破ったらしい。

ウェールズ北部のカナーフォンの街とセイオント川(イギリス)

勝利を得たアグリコラは、ウェールズ北部にいくつもの砦を築いた。その中でも中心となったのは、今のカナーフォン(上の画像)の起源となった街セゴンティウムだった。このメナイ海峡の南にあり、セイオント川の河口に面した場所ならば、ケルト人の攻撃にさらされる陸路ではなく、海路によって要塞都市チェスターと連携できると考えたんだそうな。

余談ながら、中世のイングランド王エドワード1世も、ウェールズで土着のケルト人の抵抗に手を焼いていた。そのエドワード1世も、古代ローマ帝国の総督アグリコラと同じ考えでカナーフォン城を築いたらしいよ。

カレドニア(スコットランド)でピクト人との戦い

しかし、ブリタニア総督アグリコラの戦いは続いた。まずは西暦81年に彼はヨーク(当時はエボラクムという名前の要塞都市だった)に向かい、その城砦の改修を行っている。更に彼はブリタニアの北(今のスコットランド)へと向かった。その地に住むピクト人は、古代ローマ帝国の支配に対して反抗的だった。

スコットランドに残るピクト人のデューン 石の砦(イギリス)

ピクト人はデューン 石の砦を築き、古代ローマ帝国の進出に抵抗したんだそうな。

そして西暦84年、カレドニアのピクト人と古代ローマ帝国のブリタニア駐屯軍との間で、数万人単位の決戦があった。モンス・グラピウスの戦いと呼ばれている。ピクト人は山にこもり、平地での決戦を求める古代ローマ帝国軍の誘いには乗ろうとはしなかった。ところが、食糧貯蔵庫を奪われたピクト人は、やむなく決戦に応じたんだそうな。

その結果は、ピクト人の壊滅的な敗北だった。ブリタニア総督アグリコラは、ブリタニアの全ての部族の抵抗を排除したと宣言した。そして西暦85年、ブリタニア総督アグリコラはローマに戻っていった。

ハドリアヌスの長城(城壁)、ピクト人の攻勢、古代ローマ帝国の撤退

しかし、古代ローマ帝国のブリタニア支配は、それで完成したわけじゃなかった。ブリタニア北部ではピクト人は古代ローマ帝国の支配に抵抗を続け、やがて西暦122年にはハドリアヌスの長城(城壁)が建設されることとなった。それでもピクト人は更に南にまで攻勢をかけたことさえある。

他方で、ヨーロッパ大陸においてもゲルマン人などの進出に手を焼いていた古代ローマ帝国は、結局はブリタニアから軍団を引き上げて撤退していくわけだ。

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