ハドリアヌスの長城の守備隊の反乱西暦43年、古代ローマ帝国はブリテン(今のイギリス)に進出し、ロンディニウム(今のロンドン)を築いた。古代ローマ人はブリテンにおいて西へ北へと進み、今のウェールズやスコットランドにまで至ったわけだ。(古代ローマ帝国はアイルランドまでは行かなかったらしい。)ところが、ブリテン北部(今のイギリス北部スコットランド)では、勇猛なピクト人に手を焼いた。そこで皇帝ハドリアヌスはハドリアヌスの長城を築き、北の守りとしたわけだ。
ブリテン島の東西を横切るハドリアヌスの長城の全長は約 120km。長城に沿って、約60カ所の監視所と約20カ所の砦が設けられ、北からの侵攻に備えたわけだ。上の画像はそんな砦の跡の様子なんだ。
ピクト人の古代ローマ帝国領への侵入ハドリアヌスの長城の北のカレドニア(今のスコットランド)に住んでいたのはケルト系と思われるピクト人だった。「ピクト」という名は古代ローマ人によるものなんだけど、「刺青をした人々」という意味なんだそうな。
ピクト人は多くの部族に分かれていた。でも、古代ローマ帝国との争いの過程で、ピクト人の諸部族の一体化が進んでいったらしい。(上の画像はイギリス北部スコットランド西部グレネルグ・ブロッホスに残るピクト人のデューン 石の砦。)
続いてゲール人もブリテン(イギリス)の古代ローマ帝国領に他方でブリテン(イギリス)の隣のアイルランドには、同じくケルト系のゲール人が住んでいた。彼らはしばしばブリテンの西岸において海賊行為を行っていたらしい。余談ながら、アイルランドでキリスト教の布教を行ったとされる聖パトリックは、少年の頃にゲール人の海賊によってブリテンから拉致され、奴隷とされたとも伝えられるね。ちなみに、彼の名を冠して建立されたのがダブリンにある聖パトリック大聖堂だね。
アイルランドにおけるゲール人は、いくつもの小さな王国に分かれて暮らしていた。そんな小王国の上に立ったのが上王なんだけど、上王が即位した場所がダブリンから車で1時間ほどのところにあるタラの丘だった。上の画像は今のタラの丘の様子なんだ。
古代ローマ帝国によるブリテン(イギリス)支配の回復タイミングを合わせたかのような諸部族の侵入にブリテン(イギリス)の古代ローマ帝国領は大混乱に陥った。駐屯部隊は圧倒され、街は略奪され、人々は虐殺され、あるいは奴隷とされたらしい。ゲルマンとの戦いに出ていた皇帝ウァレンティニアヌス1世(大帝)は何人かの将軍を送り込んだものの反撃は失敗に終わった。そして派遣軍を委ねたのがテオドシウス伯(後の皇帝テオドシウス1世の父親)だった。 西暦368年に軍をブリテン(イギリス)に上陸させたテオドシウス伯はロンドンに進出し、そこに派遣軍の本拠を置いた。彼は軍をいくつかに分け、あちこちで略奪を働く諸部族の部隊を個々に撃破していった。 更には古代ローマ帝国軍の脱走兵たちに恩赦を与え、以て砦の守備隊を再組織していった。かくして古代ローマ帝国はハドリアヌスの長城(下の画像)まで支配領域を回復していったらしい。
ローマに帰還したテオドシウス伯は英雄となり、皇帝ウァレンティニアヌス1世(大帝)の上級軍事顧問として重用された。そんなわけで、ブリテン遠征に同行していた彼の息子が後に皇帝テオドシウス1世となる道が拓かれたんだね。
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