ヨーロッパの歴史風景 先史・古代編




西暦367年、ピクト人・ゲール人などがブリテン(イギリス)の古代ローマ帝国領になだれ込んだ。


ハドリアヌスの長城の守備隊の反乱

西暦43年、古代ローマ帝国はブリテン(今のイギリス)に進出し、ロンディニウム(今のロンドン)を築いた。古代ローマ人はブリテンにおいて西へ北へと進み、今のウェールズスコットランドにまで至ったわけだ。(古代ローマ帝国はアイルランドまでは行かなかったらしい。)

ところが、ブリテン北部(今のイギリス北部スコットランド)では、勇猛なピクト人に手を焼いた。そこで皇帝ハドリアヌスハドリアヌスの長城を築き、北の守りとしたわけだ。

イギリス北部スコットランドとイングランドとの国境近くにあるハドリアヌスの長城の砦跡

ブリテン島の東西を横切るハドリアヌスの長城の全長は約 120km。長城に沿って、約60カ所の監視所と約20カ所の砦が設けられ、北からの侵攻に備えたわけだ。上の画像はそんな砦の跡の様子なんだ。

ところが、西暦367年にハドリアヌスの長城の砦で守備隊が反乱を起こしてしまった。砦での食事が気に入らなかったのか、酒が足りなかったのか、給料に不満があったのか、上官ともめたのか、故郷に帰りたくなったのか、反乱の背景は定かではないんだけどね。

ピクト人の古代ローマ帝国領への侵入

ハドリアヌスの長城の北のカレドニア(今のスコットランド)に住んでいたのはケルト系と思われるピクト人だった。「ピクト」という名は古代ローマ人によるものなんだけど、「刺青をした人々」という意味なんだそうな。

イギリス北部スコットランド西部グレネルグ・ブロッホスにあるピクト人のデューン 石の砦

ピクト人は多くの部族に分かれていた。でも、古代ローマ帝国との争いの過程で、ピクト人の諸部族の一体化が進んでいったらしい。(上の画像はイギリス北部スコットランド西部グレネルグ・ブロッホスに残るピクト人のデューン 石の砦。)

ハドリアヌスの長城にある砦の守備隊が反乱を起こしたとなれば、北のピクト人にとっては格好のチャンスになるよね。ピクト人はハドリアヌスの長城を越え、南側の古代ローマ帝国領に侵入を始めたわけだ。

続いてゲール人もブリテン(イギリス)の古代ローマ帝国領に

他方でブリテン(イギリス)の隣のアイルランドには、同じくケルト系のゲール人が住んでいた。彼らはしばしばブリテンの西岸において海賊行為を行っていたらしい。

余談ながら、アイルランドでキリスト教の布教を行ったとされる聖パトリックは、少年の頃にゲール人の海賊によってブリテンから拉致され、奴隷とされたとも伝えられるね。ちなみに、彼の名を冠して建立されたのがダブリンにある聖パトリック大聖堂だね。

アイルランドのタラの丘に残る立石

アイルランドにおけるゲール人は、いくつもの小さな王国に分かれて暮らしていた。そんな小王国の上に立ったのが上王なんだけど、上王が即位した場所がダブリンから車で1時間ほどのところにあるタラの丘だった。上の画像は今のタラの丘の様子なんだ。

西暦367年にピクト人がハドリアヌスの長城を越えて南に向かった時、アイルランドのゲール人も同様にブリテン(イギリス)の古代ローマ帝国領に侵入したらしい。更にはゲルマン系のサクソン人もブリテンの南東部に上陸してきた。更にはフランク人はフランス北部に侵攻したらしい。

古代ローマ帝国によるブリテン(イギリス)支配の回復

タイミングを合わせたかのような諸部族の侵入にブリテン(イギリス)の古代ローマ帝国領は大混乱に陥った。駐屯部隊は圧倒され、街は略奪され、人々は虐殺され、あるいは奴隷とされたらしい。

ゲルマンとの戦いに出ていた皇帝ウァレンティニアヌス1世(大帝)は何人かの将軍を送り込んだものの反撃は失敗に終わった。そして派遣軍を委ねたのがテオドシウス伯(後の皇帝テオドシウス1世の父親)だった。

西暦368年に軍をブリテン(イギリス)に上陸させたテオドシウス伯はロンドンに進出し、そこに派遣軍の本拠を置いた。彼は軍をいくつかに分け、あちこちで略奪を働く諸部族の部隊を個々に撃破していった。

更には古代ローマ帝国軍の脱走兵たちに恩赦を与え、以て砦の守備隊を再組織していった。かくして古代ローマ帝国はハドリアヌスの長城(下の画像)まで支配領域を回復していったらしい。

イギリス北部スコットランドとイングランドとの国境近くにあるハドリアヌスの長城

ローマに帰還したテオドシウス伯は英雄となり、皇帝ウァレンティニアヌス1世(大帝)の上級軍事顧問として重用された。そんなわけで、ブリテン遠征に同行していた彼の息子が後に皇帝テオドシウス1世となる道が拓かれたんだね。

他方でブリテン(イギリス)北部に後退したピクト人は、その後も古代ローマ帝国の領域を脅かしている。その為に何人もの皇帝がブリテン(イギリス)遠征を行っている。例えば、カラカラ帝の父親の皇帝セプティミウス・セウェルスも来ている。彼はエボラクム(今のイングランド北部の街ヨーク)に滞在中に亡くなったんだ。

またヴァティカン美術館・博物館コンスタンティヌスの間にあるフレスコ画にも描かれている皇帝コンスタンティヌスの父コンスタンティウス・クロルスもピクト人を討つ為にヨークに滞在中に亡くなった。その死を受け、ヨークの軍団は息子コンスタンティヌスを皇帝に推戴したらしい。

でも、ブリテン(イギリス)における古代ローマ帝国の防衛力は次第にが弱まり、やがて西暦410年にはブリテン(イギリス)を放棄するに至ったとも言われているね。

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